睦美が女将をしている旅館はこの温泉地で最も高級旅館として知られていた。宿泊されていたお客様がチェックアウトされるのをお見送りしながら玄関にいると、マイクロバスの第一便で最寄り駅まで送って来たスタッフが戻ったのだが、バスを停めて降りて来ると睦美に意外なことを教えてくれた。
「駅で聞いた話ですが、今日、組合長の旅館にテレビ局がやって来て撮影するそうで、泊まり込みで大規模なドラマの舞台になるそうで大変だそうですよ」
組合長の旅館とはあまり離れておらず、組合長の奥さんが女将を務めているが、睦美とも昔から交友関係があり、よく食事に出掛けることもあった。
それから5日後のことだった。彼女から電話があって「会いたい」と言われたので睦子が昼前に車で迎えに行き、お昼の食事をと隣町に出来たイタリアレストランに行くことにした。
オープンしたのは2か月ほど前だったが、「こんなところでイタリア料理を?」思っていたらグルメブームの影響からか、女性客が多くて待ち時間まであったので驚くことになった。
「睦美さん、テレビのドラマに協力するとは大変よ。旦那なんて2度と受けないと参った様子だったし、スタッフもみんなから疲れたとぼやかれたのよ」
彼女と組合長夫妻が協力したのは純粋な善意からで、この地を知って貰えたらという責任ある立場だからこそそうしたようだが、いかんせんドラマがサスペンスもので、部屋と大浴場で殺人事件が起きるシナリオになっており、放送されると今後のお客様には不要な恐怖感を抱かせる可能性もあり、想定外のメージダウンにつながる問題が浮上して来たというのである。
外で殺人事件が発生するような設定で、関係者が旅館に宿泊していたとなれば救いもあるが。館内で2人も殺害される事件設定となれば旅館側が困ることは理解出来るし、自分の旅館なら絶対にお断りとなるだろう。
「今からストーリーを変更して貰えないの?」
「もう撮影してしまって後は編集だそうだけど。どうにもならないことが確実なのよ」
出演者や関係スタッフのことを考えたら無理なことは理解出来るが、シナリオを描いた放送作家も客室や大浴場で殺人事件を描いたら旅館側がどうなるかは常識だし、いくらフィクションとしてもお客様の立場からするとあまり気持ちのよいことではなく、1人で大浴場に行かないとか、部屋を変更して欲しいということもあるかもしれない。
「施設の提供をして撮影に協力する場合、先にシナリオを確認しておく必要があると旦那も私も思ったの」
「大変だったわねえ」と慰めながら同情するしかない睦子だった。
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