ある日、チェックインの時間に玄関でお客様を迎えていると、テレビで何度も観たことのある有名な落語家さんがやって来られてびっくり。芸名ではなく本名で予約されていたので分からなかったが、ご夫婦でのご来館だった。
東京駅から新幹線で1時間と少しで最寄り駅に着くことが可能で、タクシーで15分というアクセスなので東京のお客様が多く、これまでにも有名な芸能人の来館もあったが、落語家さんは初めてなのでどのように対応しようかと考える女将の佐弥香だった。
やがて夕食の時間が訪れ、各客室を回って歓迎のご挨拶に参上することになったが、その人物の部屋は何か面白い話が聞けるかもしれないと期待し、最後の順にしていた。
部屋担当の仲居からの報告があり、心付けをいただいたそうだが。見せられた金封も流石に粋な絵文字が描かれており、厨房のボードに貼り付けられていたので厨房スタッフや料理を取りに来た仲居達も皆で感心して話題になっていた。
板の間で正座して襖を開け、いつものように歓迎のご挨拶をした佐弥香だったが、食事を始められてから少しお酒を飲まれたようで、ご夫婦共ほんのりと頬が赤くなっているのが確認出来た。
「女将さん、お世話になりますね。女房が友人からここがいいと勧められて前から来たいと思っていたので期待しているよ、なんて言っちゃって」
冒頭からダジャレ的なオヤジギャグだが、やはり噺家らしく、佐弥香には何か聞き易い感じを受けた。
「女将さん、ちょっと雑学をお土産話として枕にしましょうか」と言って面白いクイズを出されることになった。
それは過去に落語の本題に入る前の枕の部分に入れたこともある話だそうで、舞台の幕を開ける時に「東西、東西」というのは何故かというものだった。
佐弥香が「存じません」と答えると、噺家が次のように教えてくれた。
「簡単なことなのです。東西南北の『東西』だけを言っている訳ですが、残っている『南北』をそのまま言葉にすれば答えになるのです。『みなみにきた』つまり『皆観に来たとなるのです』よ」
それを聞いて面白いと思っているところへ、料理を持参した部屋係の仲居が入って来たが、彼女が「女将さん、お部屋をご案内した時にクイズを出されましてね。分かりませんと答えたら面白いことを教えてくださったのです」と、彼女がお茶の準備をしていた時に体験した話題を教えてくれた。
「ローマに有名なトレビの泉があるでしょう。コインを1枚投げ入れると必ずもう一度訪れることが出来、2枚投げ入れると好きな人と来ることが出来るというものですが、3枚投げ入れるとどういうことになるかという問題なのです。女将さん、分かりますか?」
女将と仲居のそんなやりとりを楽しそうに見ていた噺家が、その答えについて次のようにことばを挟んだ。
「難しく考える必要はありません。ただ1枚損をするだけですから」
佐弥香は思わず笑ってしまったが、仲居が「面白いでしょう」と言葉を足した。
トレビの泉の工事が終わってまた元に戻ったニュースが数日前にあったが、それをすぐにテーマとするプロの芸に驚きながら、その後も面白い話をされたので、貸切で高座の席にいるような幸運なひとときを過ごせた佐弥香だった。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、落語家に笑わされる」へのコメントを投稿してください。