温泉と卓球がいつどのように結び付いたかは不明だが、大手旅行会社にHPには「卓球の出来る温泉」という特集もあるし、山口県の湯田温泉ではスリッパによる卓球大会のイベントが恒例となっている。
1998年、松坂慶子さん、大杉連さん、蟹江敬三さんらが出演された映画がヒットしたことから一気に話題を呼んで広がったみたいだが、あの時に温泉街としてロケ地になっていたのは長野県別所温泉だった。
可南子が女将をしている温泉旅館も同じ県内にあるが、あの大ヒットから大浴場に隣接する部屋をリニューアル工事して2台の卓球台を入れており、子供連れのお客様だけではなく結構ご高齢の方も楽しまれている。
部屋食での夕食が終わって片付けが始まっていた頃だった。一人の仲居がフロントにいた可南子の所へやって来て「女将さん、お願いします。約束してしまったのです」と伝えに来た。
彼女が担当しているお客様は中学生と小学生の女の子を伴われた4人のご家族連れだが、片付けている最中に中学1年生の子供さんから「卓球台はあるの?」と聞かれ、「ありますよ」と答えたのはよいが、続いて「女将さんが元国体選手で凄かったらしいですよ」と教えたと言うのである
確かに可南子の現役時代の選手としての歴史は輝かしいもので、インターハイや大学選手権、日本選手権での入賞も語り継がれている程だが、大学を卒業して卓球チームの名門として知られた生命保険会社に入社。そこで実家の旅館を後継するようになった夫と知り合ったのだから面白いものである。
因みに夫は卓球と無縁だったが、ある実業団の大会で自分の不甲斐ないプレー振りに涙を流していた可南子に、応援に来ていた夫がペットボトルのお茶を持ってきてくれたことがきっかけで今日に至っている。
「女将さん、その子供さんが『女将さんと会わせて。卓球をやりたい。私も卓球部に入ったの』と言われているのです。ご両親も是非と仰って困りましてね」
「仕方ないわね。こんな着物姿で卓球なんて出来ないので作務衣にでも着替えるわ。20分後に卓球台の所で」ということになった。
これまでにお客様の相手を時折にしたことはあるが、仲居の発言からこんなことになったのは初めてのこと。きっと誇大宣伝しているのだろうと思いながら、その子の将来に何かがプラスになればと決断したことでもあった。
20分後、作務衣姿の可南子が卓球台の置かれたコーナーへ行くと、仲居と共に4人のご家族全員が来られていた。ラケットを手にしている女の子は緊張気味だった。
ただゲームを楽しむのではなく、今後のために役立つテーマを与えたいと思った可南子は、「一度素振りを見たいわ」と指導を始めた。
卓球の素振りとは身体の横から前面に三角形型にラケットを振るのが基本だが、それについて可南子は次のように教えた。
「ラケットの横の動きは球威を与えるもの。縦の動きは回転を与えるもの。この二つがうまくコントロール出来なければ威力のあるボールは打てないの」
そんなことを聞いたのは初めてらしく、女の子はますます緊張してしまった。やがて「やりましょう」とゲームが始まったが、それこそプロとアマチュアの開きがあるが、女の子の目が輝いて夢中になっている。
最後にオリンピック代表に選出されている「福原愛選手」の投げ上げサーブのテクニックを教えたら感激の面持ち。ご両親からも丁寧な感謝の言葉を頂戴し、「この旅館に来てよかった」と言われたが、女の子は「冬休みにも来ますから」と頭を下げた。
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