真奈美が女将をしている旅館の社長は彼女の夫である。20代後半に両者を知る親戚の勧めから見合いすることになり、その3ヵ月後には結婚して若女将として先代女将に教育を受けたが、その先代女将も2年前に急な病で倒れて急逝。まだ50歳にならないのに女将と呼ばれる立場になった。
先代社長が10年前に交通事故で亡くなっており、先代女将の口癖は「絶対に事故を起こさないように運転しなさい」だった。
現社長の道楽は車で、学生時代から数えると8台も乗り換えており、6台目からずっとトヨタのセンチュリーを気に入り、現在は3台目となるが、自身で手入れをして時折にお客様の送迎にも利用している。
10年ほど前のことだったと記憶しているが、副支配人がお客様専用の送迎に選んだ車はトヨタのクラウンだったが、助手席が電動で外側に向けられるので車椅子から移動されるお客様には喜ばれており、今でもその車を大切に活用されている。
旅館名義の車の全てはこの町のモータースのお世話になっている。店主と現社長が地元の高校時代の同級生という関係もあり、新車の購入から修理や車検だけではなく、自動車保険の代理店もやっているところから火災保険やゴルフの保険まで依頼していた。
センチュリーを初めて購入する時の出来事が忘れられない。ロビーに夫婦と店主と共に、彼が紹介してくれたトヨタのセールスマンとのやりとりだが、購入することが決まって契約書にサインして印鑑を押す際にセールスマンがびっくりする発言をしたからだ。
「本当によろしいのですね? 本当に購入くださりご契約をいただけるのですね?」
そんな不思議なニュアンスを感じる確認の言葉に「?」を感じていると、店主がその意味と理由について説明をしてくれた。
その時点でセンチュリーは半年後にフルモデルチェンジをするということが発表されており、想像以上の値引き提案もあって、それを承知で購入する夫の行動に念を押した発言だった。
この話については真奈美も「半年待っては?」と言葉を挟んでいたが、夫は駄々っ子のように「この型が好きなんだ」と言い切って契約に進んだのだが、セールスマンの発言には購入者である夫のことを思った好意的なもので、店主はセールスマンが帰った後に説明してくれた。
「実はね、半年後にモデルチェンジが決まっているところから、現在のモデルは中古車価格が一気にダウンするという事実がある訳で、こんな車を購入するのは会社関係が大半で新車に乗り換えることが多く、中古車としての価値観が想像以上に低価格になっている事情があってね」
その説明からするとセールスマンの言葉は親切だったことになるが、夫が当時の古い型に憧れていた事情は先代社長が乗りたかったからで、走行中に見掛けるといつも「あれに乗りたくてね」と言っていた心残りを知った。
それでも半年待つべきでは。価格がアップしてもその方がと思う真奈美だったが、夫の先代に対する思いを「かたち」にする行動に反対する気はなかった。
しかし、店主は内緒で真奈美にある事実を正直に教えてくれた。それは納車された時点で購入価格の七分の一になってしまうというもので、その事実を誰よりも知る担当セールスマンが念を押した意味を再認識することになった。
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