30室ある旅館。この日は26室にお客様が入っており、この旅館のポリシーの一つである部屋食が始まった状況で、予約時やチェックイン時に伺ったお客様のご要望にミスがないかを確認している女将の佐和子の忙しい時間帯だった。
落ち着いてから各部屋に参上してご挨拶申し上げることになるが、部屋食の配膳に行っていた一人の仲居が次の料理を取りに厨房へ戻ったのだが、その時に担当しているお客様の発せられた言葉を次のように愚痴った。
「難しいお客様みたいですよ。『夕食が楽しみでホテルより旅館を選んでいるが、何処の旅館に泊まっても最後に拘りの御飯を出されるが、やはり日本人は炊き立ての白い御飯が最高だ』」と言われました」
佐和子の旅館の夕食時のご飯は料理長が厳選した食材をそれぞれのお客様の釜で炊き上げる炊き込み御飯で、食事が始まる頃に部屋のテーブルに置いた釜に着火して、炊き立てを召し上がっていただくようになっていた。
しかし、佐和子はそのお客様の言葉が気になって仕方なく、料理長に頼んで余分に炊き込み御飯でない白い御飯を準備して貰い、佐和子自身がそのお客様の部屋へもう一つ釜を持参することにした。
「女将でございます。失礼申し上げます」と言ってさりげなく入室し、お盆に載せた小さな釜をテーブルの隅に置き、「よければ白い御飯もご準備いたしましたのでどうぞ」と着火した。
「いやあ、参ったなあ。仲居さんに話した言葉が伝わったみたいだなあ。そう思っていただけで、こんなことをお願いするつもりは全くなかったのだよ」
「申し訳ない」と恐縮されるので何かプレッシャーを与えてしまったように感じたが、「担当の仲居が炊き込み御飯と白い御飯の食べ比べをしていただきたいと申しますので」と返し、これが仲居の発想からということにした。
そのやり取りについては担当の仲居に伝えたのは言うまでもないが、お客様が仲居に対してびっくりするほど感謝の言葉を掛けられることになり、仲居が「くすぐったくなりました。女将さんはお人が悪いことを」なんて笑顔で話していたが、まんざらでもない様子だった。
やがて食事が終わりデザートタイムとなった。部屋の片付けをして戻った仲居はそのお客様の感想を次のように語ってくれた。
「食べ比べをさせて貰ったが、この旅館の炊き込み御飯は最高だったな。白いご飯より素晴らしかった。料理長さんの味付けは超一流ですね」
その言葉を耳にした料理長もにんまりした表情を見せ、女将の描いたシナリオの狙いの意味を改めて知ることになった。
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