都内から新幹線で2時間半乗車、そこから在来線の特急に乗り継いで30分という東北の温泉地に麗子が女将を務める旅館があった。
彼女には絵画鑑賞という趣味があり、ロビーや廊下には彼女が選んだ上品な絵が展示されており、お客様の中には「誰か絵画に造詣があるの」と質問され、仲居が「女将さんですと」答えたこともあった。
ある日、新聞を読んでいると昔から興味を覚えていた画家の個展が函館で開催されることを知り、最もお客様の少ない月曜日に出発して函館で1泊。午前中に鑑賞して戻る予定を組んでいた。
函館には学生時代からの友人がいる。電話を掛けて久し振りに話したが、宿泊当日に一緒食事でもと誘ったら、丁度海外旅行に出掛けている期間で国内にいないことが判明、帰国してからに変更しようということも考えたが、生憎と個展の開催期間に問題がある。そこで仕方なくホテルの手配だけ頼むことにした。
在来線の特急列車から新幹線に乗り換えて新青森駅へ。そこから「特急スーパー白鳥」で青函トンネル内を走行して函館に向かう行程を組み、外国に出掛けている友人と会えない運の悪さに腹立たしい思いもあったが、今回の画家の個展はそれこそ彼女にとって千歳一隅のチャンスで、よくぞ新聞記事で目にしたものだと幸運に感謝もしていた。
函館駅に着いたのは暗くなってから。すぐに駅前から近い大きなホテルへ向かったが、フロントでチェックイン時に「メッセージをお預かりいたしております」と洋風の封筒を渡され、エレベーターで7階の部屋に行った。
バッグを置いてベッドに腰を降ろし手紙の封を切ったら、このホテルの予約をしてくれた友人が託していた物と知った。彼女は今異国の地にいる。そんな情景を思い浮かべながら二つ折りのメッセージカードを開けたら、次のように書いてとあった。
「麗子へ スケジュールが合わずに残念でなりません。今回の旅行は随分前から決まっていたことで変更出来なくてごめんなさいと手を合わせています。出来たら851号室をと思ったのですが、生憎と予約出来なかったのでその真下の751号室にしましたがお許しください。函館のひとときが優雅に麗子を包んでくれることを祈っております」
これを見てその意味が理解出来る人は少ないと思うが、麗子もどういう意味かさっぱり分からなかったが、あの友人がこんなことを書いているのだから何かがあるだろうとは想像していた。
一人旅の函館の夜は寂しいものだった。部屋から函館港が見える。ホテル内のレストランで食事を済ませ、青函連絡船のモニュメントとして係留されている八甲田丸の近くを散策。彼女がいたら楽しかっただろうなと残念に思いながら1時間ほど歩いた。
次の日、朝食を済ませてタクシーで個展が開かれている会場へ直行。入場料を支払って展示品を眺めたが、それは久し振りに感じた至福のひとときとなった。
復路も往路と同じ行程で戻ったが、その日のお客様のチェックアウトを済ませた時に気になったのが函館のホテルの851号室のこと。支配人は事務所のスタッフに聞いてみても誰も意味が分からず、彼女が帰国してから聞くことにした。
数日後、その彼女の方から電話があった。「函館で寂しい思いをさせてごめんなさいね。さっき函館空港から戻って来たの。買って来たお土産は後日に宅配するから楽しみにしておいてね」
「凾館はいいね。夜の函館港を1時間ほど散策してセンチメンタルな心情になったわ。ところでメッセージのことだけど『851号室』て、どういう意味があるの。ずっと気になっていたの」
「やはりね。それは悪戯っぽく私がやったことなの。お土産の宅配の中に答えを入れておくからね」
何かメモでも入れて来るとは考えられないし、彼女の感性は友人仲間でも別格の存在として知られているので何かあるとは想像していたが、数日後に届いた宅配便を開くと中に1冊の本が入っていた。
芥川賞作家として知られる「辻仁成」氏の作品「凾館物語」で、その中に彼が過日のホテルの851号室から見える景色が好きで、そこを利用する時はその部屋を指定しているというものだった。
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