毎年3月の第1日曜日は大学時代の仲間4人と東京で集まることが恒例になっており、もう12回目を迎えている。
女将の朋子はこの日をずっと楽しみにしており、当日の全てのお客様のチェックアウトが済むと、用意してあったバッグを手に支配人に最寄り駅まで乗せて貰った。
在来線の特急列車を利用すれば2時間弱で東京に着くが、宿泊するホテルが待ち合わせの場所。それぞれが自由にチェックインを済ませて午後5時にロビーで会うことになっていた。
一人は千葉県の知られる洋菓子店の奥さんで、他の2人はどちらも元大手航空会社のCAだったが、その内の一人洋子は退職してから人材教育を仕事とする会社に勤務。今では役員に就任しながら講師も担当しており、朋子の旅館にも指導に来て貰ったことがあった。
今回の幹事は洋子で、宿泊しているホテルも航空会社の系列で、随分と特別待遇を受けていた。
全員が定刻に揃った。洋子が「お勧め」と予約してくれた割烹にはタクシーで出掛けたが、今日の料理は佐賀牛のしゃぶしゃぶだそうで、この店のオリジナルな「ごまだれ」が絶品だと聞いていたので3人は楽しみにしていた。
千葉県から来ている彼女が足を痛めているところから座敷ではなく1回のテーブル席の個室が予約されていたが、落ち着きのある佇まいの玄関から中へ入っても何か隠れ家風の大人の風情が感じられる環境だった。
やがて着物姿の若い女性スタッフがお茶を持って来てくれ、洋子がメニューを見ながら「メイン料理はしゃぶしゃぶだけど、先にお酒やビールに合うものをちょっと」と言って、玉ねぎの天ぷら、蓮根の天ぷら、海老とゴボウのかき揚げ、水雲を注文し、それぞれが生ビールを頼んで乾杯することにした。
「再会を祝して」と乾杯してしばらくすると玉ねぎの天ぷらと海老とゴボウのかき揚げが並び、それぞれが「美味しい」と言いながら箸を進めたが、しばらくすると「しゃぶしゃぶ」の具材が準備された大皿が運ばれ、鍋の電子スイッチも入れられた。
野菜の一部を鍋に入れた時、洋子が「蓮根のてんぷらと水雲はまだ?」と確認したら、女性スタッフと思い掛けないやりとりが始まった。
「蓮根の天ぷらはそれでは?」「これは玉ねぎの天ぷらよ」「そうですか?」「水雲はどうなっているの」「本日は水雲はご用意出来ないそうで」「それなら先にそう言うべきじゃない?」「申し訳ございません」
接客を担当するスタッフとしてはおかしな対応だが、人材教育を専門とする洋子が意外と立腹せずに優しくやりとりしている光景に朋子は<優しくなった。それだけ年齢を重ねたからだろうか。昔なら考えられないけど>と思っていた。
それから2時間弱のひとときが過ごされ、この店のオリジナルという「ごまだれ」でしゃぶしゃぶを堪能したが、支払時のカウンターで予想もしなかった問題が表面化した。
運ばれて来なかった「水雲」の料金が伝票に計上されていたからで、これも担当の女性スタッフのミスだと判明し、洋子が顔馴染みという支配人が登場して平身低頭して謝罪したが、ここでも洋子は優しかった。
ホテルへ戻るタクシーの中で「洋子、優しくなったね」と朋子が言うと、「考え方を変えてね『借り』より『貸し』を作る方がベターだしね」と返した洋子だった。
ホテルに戻り、ラウンジで「お勧め」と言われて食べたのが「ぜんざい」で、久し振りに甘い物に出合った東京の夜だった。
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