久美子が女将を務めている旅館の事務所には2枚の感謝状が掲げられている。普通ならお客様の目に留まるところに掲げるだろうが、自慢げに思われることを嫌う久美子の性格がそうさせていた。
他にも組織団体の役員を務めていた先代社長のものはいっぱいあるが、この2枚は久美子が女将になってから授与されたもので、どちらも忘れられない出来事となっている。
一枚は県知事から贈られたもの。2年ほど前に温泉街の中を流れる川が大雨の影響から下流で氾濫、想像を絶する土砂崩れが発生して多くの犠牲者が出たが、復興に関して援助に駆け付けてくれた多くのボランティアの人達に大浴場を解放提供した行為に対するものだった。
最寄り駅からの県道も通行止めになり、開通するまで1週間を要し、この間はお客様が来るアクセスがなかったので開店休業状態になっており、それならと考えた決断が大浴場の提供だった。
その時に利用されたボランティアの方がその後にお客様として来られて恐縮したが、地元の新聞記事に採り上げられたことから県知事から贈られた経緯があった。
もう1枚はまるでテレビドラマみたいな出来事だった。ある日地元の警察から手配書が回り、フロントを避けて事務所内に掲示していたのだが、それから1ヵ月も経たない内にその手配書の写真によく似た人物が利用され、フロントスタッフが「何処かで会ったような気がする」ということが発端で、もしもそうだったら大変だと警察署に電話をしていた。
テレビで警察の苦労話を特集していた番組の中で、「見当たり捜査」の専門捜査官が紹介され、署内で指名手配犯の写真で目をじっくりと見て記憶。駅やパチンコ店を巡回して見つけるというものだったが、その時のフロントスタッフの気付きもそれと同じような疑問で、ひょっとしてから確信に至った訳であった。
警察署に電話を入れたらすぐに裏口から事務所へ刑事がやって来た。本人が女性を伴って車で来館した事実を伝えると、すぐに車のナンバープレートを調べて手配犯の関係者である女性の所有する車であることが判明。犯人確保に慎重なシナリオを描いていた。
逃亡の可能性を考慮して数名の捜査員が徹夜で張り込み。確保するのはチェックアウトをしてから向かう駐車場ということになった。それは旅館側に対する配慮でもあったが、その日を迎える夜は久美子も支配人も事務所で一睡も出来なかった。
捜査員達の描いたシナリオ通りに幕を閉じることが出来て安堵したが、数日後の県警から感謝状が贈られると連絡があって大丈夫だろうかと思いながら貰って来たものである。
手配犯は詐欺容疑だったので幾分精神的に楽だったが、これが殺人犯でもあったならと思うとゾッとする。当日のチェックアウトで他のお客様が巻き込まれたら大変と、当事者が玄関を出る時は久美子が見送り、その前後のお客様とバッティングしないような配慮はしていた。
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