北原は葬儀社のベテラン社員として誰からも存在感が強く、若手社員からも慕われていた。
ある日、事務所に座っていると掛かって来た電話を取った若い女性スタッフが「しばらくお待ちください。担当者と代わりますから」と言って北原に出るようにと受話器を差し出した。
用件も聞かずに対応するのも問題なので大凡のことを確認するのは当たり前だが、女性スタッフによると社葬の見積りについてということだった。
「お待たせいたしました。担当の北原と申します」と伝えて相手側とのやりとりが始まった。机の上に置かれたメモ帳に書き込みながら対応をしている。そんな時間が5分ほど続いて受話器が置かれた。
北原はメモした内容を整理しながら箇条書きに並べて書き込んでいる。それは1時間ほど経ったら帰社する社長に報告しなければならない問題だった。
そして社長が戻ると同時に事務所内にいた全員に聞こえるような声で報告を始めた。
「実は、びっくりいたしましたが、社葬の見積りについてのご要望でした。ご入院中の会長さんの容態が芳しくなく、会社ではいざという時のために社葬の準備を始めたそうで、すでに4社の同業者から見積書と祭壇のデザインパースを入手されているとのことですが、一人の役員さんが弊社の担当した社葬に参列されたことがあり、その時の好印象から弊社もということになったそうです。
有り難くて嬉しい話である。相手さんは誰も知られる有名企業で、その創業者の社葬となれば大規模で参列者の人数も半端じゃなく、式場も限られ、そこしか他にないという想定となって来る。
そんな報告を黙って聞いていた社長は、「分かった。相手様には見積書は必要ない。私が手紙を書くから」とだけ返し、そのまま社長室に入ってパソコンを打ち込み始めた。
1時間ほど経ってから北原が呼ばれ、プリントアウトされた4ページの文書を手に社長室から出て来て、自分の机に座るとその内容を読み始めた。
しばらくすると「えっ!」と声を上げ、かなり驚いた表情を見せた。「嘘でしょう。考えられませんよ」と信じられない感じで読み終わった。
「どう思う。私には社長の考えは理解出来ません。社葬の見積り依頼の電話に対して弊社はお断りします。どうぞ他社でなんて信じられますか?こんな手紙を届けて来なさいと言われても私は無理ですよ」
これだけ聞けば確かに誰も理解出来ない話だが、その文書にはなぜ断るかについても詳しく説明されていた。
「会長様のことを全く存じません。何がお好きで何がお嫌いかも不明です。会社に対する思いやお心残りもわかりませんし、社員の方々、またご家族の方々がどのような思いでお送りされたいのかも分かりません。ましてやお好みの色、お好みの花も分からない状態で祭壇パースを創作することは弊社で不可能です」
要約するとそんなことが書かれていたが、電話でお断りすることや郵送することも失礼になるので参上して届けて来るようにと北原が命じられたのである。
「依頼を断るのに訪問出来ますか。こんな文書を届けたら相手様はお怒りモードになりますよ。そうでしょう」
と言っても自分が電話に出たことも事実だし、社長から命じられたから仕方がないことも事実である。ただ一人では行き難いので誰か一緒に行ってくれと選ばれたのがアフターサービスを担当している女性スタッフだった。
そんな2人が相手様の会社に参上してから2時間後に帰社した。片道30分ぐらいなので1時間程度会社にいたことになる。戻って来た女性スタッフが次のように言った。
「私もね、車の中で文書を読んだの。確かにお断りしますというのは信じられませんが、その理由については確かにそうねと思ったの。応接室で1時間ほど待たされている間は会話も出来ませんでしたが。役員さん達が別室で読まれてご立腹されているだろうなと想像していましたけど、北原さんなんて固まってしまっていましたからねえ」
そんな出来事があった次の日のこと。その会社から北原に電話が掛かって来た。
「役員で相談いたしました。御社が指摘されたことが適切でそこにプロらしいと感じ入りました。その日を迎えた時には社葬を依頼したいと思いますので改めて打ち合わせに来社を」という内容にびっくり。他社は全てお断りしましたという事実にも嬉しく思い、すぐに社長室に報告に行った。
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