8年前に有美香がこの旅館に嫁いで来てからすぐに知り合ったのが隣接するホテルの若女将で、有美香が若女将として就任した時にご挨拶に行ってからずっと交流が始まっていた。
偶然に有美香と同年生まれだが、彼女は1ヵ月ほど前から女将が東京の病院へ入院したこともあり、若女将という立場ながら女将代行として重い責務を担っている。
そんな彼女が有美香をお茶に誘って来た。レモンティーが好みの彼女はよく近くの喫茶店に誘ってくれるが、この喫茶店のマスターはコーヒーと紅茶の注文をしたら自分で焼いたクッキーを付けてくれるのが評判で、2人は甘い物も大好きだったので何度もここを訪れていた。
明るい日差しがテーブルを照らすのが眩しいが、外の山の風景が素晴らしい席なので空いていていたらいつもその席を選択したが、そこで彼女が体験して来た面白い話を聞くことになった。
「東京の病院に女将が入院しているでしょう。昨日の昼前からお見舞いに行って来たの」
女将は還暦を迎えてしばらくした頃に階段を上がっているところで突然呼吸が困難になり、救急車で地元の市民病院に搬送されたが、検査の結果で肺に問題があることが判明。東京の大学病院に転院して手術を受けていたが、ガンではなかったので家族みんなが安堵していた。
「術後の経過もよくてもうすぐ退院なのだけど、お洗濯物もこともあるし週に2回は通っているのだけど『私のことは大丈夫だから、ホテルのお仕事をしっかりと』と言われるのだから大変よ」
この温泉地から東京の中心地まで新幹線の最寄り駅から1時間半もあれば行けるし、車で高速道路を走行しても2時間少しなのでアクセスには恵まれているが、病院は東京駅から少し離れているので地下鉄で移動するそうである。
「女将さんね、イチゴが大好物なの。もう食べさせてもよいそうで、有名なフルーツショップで買ったのだけど、ここで気分の悪いことがあってね、頭に来たから『おかしい!』と抗議してしまったの」
彼女は大人しい性格で、よほどのことがないと激情することはない筈だがと思いながら次の言葉を待っていると、堰を切ったようにその事情を語り始めた。
「店先に様々な商品である果物が置かれてあったの。目的のイチゴを見るとそれは如何にも高級品らしくて新鮮な感じがするものだし、値札が『5000円』だったのでお願いしたの」
彼女の話によるとイチゴの入った木箱が2箱並んでおり、その中間部に5センチ辺の値札が置かれていたそうだが、2箱だと思って奥のレジで5000円札を出すと『1万円です』と言われて唖然としたそうだ」
値札に1箱5000円との表記はされていなかったようで、二つ並んだ木箱の中央にその値札が置かれたら購入する側が「2箱」と勘違いをしてしまうのは当然で、いざ支払いの段になって「2箱で1万円です」と言われるとびっくりするのも当然である。
気の弱い性格の客なら勝手な思い込みをしていた自分の非を理解して抵抗感を訴えることもないだろうが、彼女は自身が接客業という立場と正義感が強いところから次のようなクレームを言ったそうだ。
「全国的に知られるフルーツショップとしては、この商法はいただけませんね。お客様の誤解や勝手な思い込みを逆手に取る詐欺的商法と指摘されることも考えられます。現に私がその誤解や思い込みをしたのですから」
そんなやりとりが聞こえたのか、奥の方から店長という人物が登場したので経緯を説明したら、実際に売り場の陳列方法を再現したら「これは誤解を招いて当然です。当方の完全なミスでお客様のご気分を害することになり申し訳なく思います」と謝罪されたそうだが、「2箱を5000円で結構です」と提案されたそうだが、謝罪を受け入れて1箱だけ2500円で購入して来たというのだから面白い出来事だが、有美香は彼女の性格をこれまで以上に好感を抱くことになった。
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