夕食時にご挨拶に参上するが、それこそお客様のお話の内容は様々で、初めて知ることもいっぱいあるが、それも女将の利津の楽しみになっていた。
今日の最後にお見送りした60代のご夫婦は仕出し料理でケータリングを手広くされている都内から来られていた方だった。
2年前に後継者に任され、隠居をされていると聞いたが、昨年からご夫婦であちこちの神社仏閣を参拝されているそうで、今回は長野の善光寺へ来られていた。
奥様が見せてくださった参拝記念ともなる朱印帳にはこれまでに行かれた神社仏閣の
記録が認められてあり、各ページに達筆な毛筆で独特の文字が記されてあるが、神社より仏閣の方が達筆だったように思えた。
人に歴史ありという言葉があるが、ご主人の苦労話はそれこそ人生ドラマで、ある人物との出会いから発想転換に気付かれ、それから6年間間で会社の規模を10倍以上も大きくすることが出来たそうだ。
「その方と巡り会っていなかったら会社の存続はなかったと思います。業界とは無縁の方でコンサルタントでもない立場で与えてくださったヒントに指針が開け、その後は全てが好循環で業績アップを続けることが出来たのです」
隠居を決断されて晩年に神社仏閣参拝に出掛けられるようになった背景には、その人物が随分前に交通事故で亡くなられてしまったからで、訪れた聖地でその方に感謝の思いを伝えるために手を合わせ、事業の中で食中毒が発生しないように祈っていると説明されていた。
「事業が軌道に乗り始めた頃に仕出しの幕の内弁当で食中毒事件が起きましてね、当事者のご家族からクレームの電話があった時は心臓が止まりそうな衝撃を受けました。科学的に考えられた業界向けの抗菌シートを用いていたのですが、その日はなぜそんなことにと思って一睡も出来ませんでした」
ご本人は食中毒症状から入院されており、次の日にお見舞いに行かれたそうだが、病室に親戚の方が来られていたそうで、その方が意外な事情を説明されて予想もしなかった結末となったそうだ。
「料理屋さんの責任ではありませんからご安心ください。実は昨日の昼食時に彼女は体調が悪くて何も食べず、車で帰る途中でちょっと食欲が出たみたいで、国道に目に留まったファミレスで食事をしたのですが。その間に駐車していた車内に幕の内弁当が置かれたままで、自宅に到着した際には絶対に食べないようにと言ったのに、彼女が『もったいないから』と食べられた経緯があり、ご本人も『当たったら自己責任だよね』と笑っておられたことを聞きまして取り敢えずホッとしました」
クレームの電話を入れられたのは帰宅して事情を知らなかった息子さんで、賠償問題に発展することはなく解決することになったが、その体験から絶対に起こすなと食中毒対処に取り組まれたそうで、これまでに保健所から営業停止になるような出来事は一切発生していないと仰っていた。
この話はその日の内に料理長をはじめとする厨房スタッフに伝えられたが、お客様の体調が悪いという不可抗力のケースもあるので考えてみれば恐ろしい問題である。
お酒が入って赤くなられたお顔で「最近は航空会社の機内食も一部で進んでいます」と嬉しそうな表情が印象に残っている。
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