夫が選んだ温泉地は園子の旅館がある温泉地から山を超えた反対側になり、その中の瀟洒な和風旅館を予約していた。
インターチェンジから25キロと表示されていたので普通なら40分ぐらいで到着可能な距離だが、国道も霧の影響があるので減速しなければならず、到着したのは電話を入れてから1時間後だった。
「インターチェンジのところから電話をしています」と伝えていた夫の言葉から、霧であっても1時間程度で到着すると予想していたからだろうか、2人の車が旅館の玄関に到着する手前で男性スタッフと共に着物姿の女将らしい50歳ぐらいの女性が立って迎えてくれる姿が見えた。
到着した頃には日が落ちてヘッドライトを点灯するようになっていたが、インターチェンジから離れるに連れ霧が薄くなって対向車のライトがはっきりと見えたので安心出来た。
「酷い霧でしたでしょう。お疲れ様でした。ようこそお越しくださいました。当館の女将でございます。フロントの方へご案内申し上げます」
女将がそう言うと男性スタッフが「お荷物は私が」と受け取り、「お車はこちらへ」と玄関横の数台駐車可能なスペースを夫の車を誘導した。
ロビーのソファーに座ると夫がやって来るのとお茶が出されるのと同時だった。ちょっと晩めのチェックインだったのでお茶を持って来てくれたのは事務服姿の若い女性で、どうやらフロントスタッフではなく事務所の中から出て来たみたいだった。
「初めて体験するような酷い霧でしてね、安全を考えてインターチェンジで降り、こちらの旅館でお世話になろうと電話をしたのですが、満室でなかってラッキーでした」
それは夫の言葉だったが、それに対して返した女将の言葉は2人にとって驚くものだった。
「当館は契約している大手旅行会社さん以外からの紹介は受け付けておりませんので。めったに満室になることはございません。お客様方のように突然お電話でご予約を承るケースもございまして、馴染みのお客様のために満室でないことも歓迎されている事実もございまして」
同業の立場でこんな言葉を耳にしたのは初めての2人だった。大手旅行会社以外からの予約を受け付けないというホテルや旅館の存在はあるが、常連さんのために敢えてそうした環境を保っているという事実は衝撃的だが、この旅館を選択した夫は高額な宿泊料金を認識していたのでその意味も理解出来たように思っていた。
やがて上品な立ち振る舞いをする高齢の仲居さんに案内されて部屋に入り、ふかふかとした座布団に腰を降ろして出されたお茶を飲んでいると、「お食事は何時にいたしましょうか?」と聞かれた。
その仲居さんの話によると6時半と7時の選択が可能で、料理内容は「牡丹鍋」「鴨すき」「さくら肉のすき」「牛すき」とあり、懐石料理も可能だが今からなら30分ほど余裕を見て欲しいということだった。
突然の予約だったし「牡丹」も「さくら」も苦手な夫のこともあり、園子が「牛すきでお願い出来ますか」と答え、いつも持ち歩いているかわいいポチ袋に新札の祝儀を入れて仲居さんに手渡すと、「恐れ入ります」とニコッとされた。
食事のこと、また大浴場でのこと、そして高額な宿泊料金に対するコスパは如何なことになったのだろうか。そんな話題は、また次の機会に紹介をすることにしよう。
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