同じ県内にある温泉地の旅館の女将と「女将会」で知り合い、互いの夫婦が訪問し合ったこともあるのでこれからも続くだろうと思っていたのだが、そんな中で突然女将が昨日の夕刻、「明日にでも会いたい」と何か特別な事情を抱えるニュアンスが伝わる電話があった。
約束をしている時間の少し前にロビーのコーナーにある花瓶の整頓を済ませた文は女将のにし彩葉は、ラウンジで好みの紅茶を入れて貰って彼女の来館を待っていた。
しばらくすると玄関に彼女の姿が見えたが、夫である社長も同行されており、辞退が普通でないことを覚悟しながら相談を受けることになったが、彩葉の夫は応接室で別の来客を担当しており、終り次第にこちらへ同席することになっていた。
「お忙しい中で貴重な時間をごめんなさいね」「お気遣いなく、当旅館は貧乏暇なしのというだけですから」
彩葉夫妻より一回り若い夫婦だったが、先代が泣くなって後継した社長を支え、先代女将が体調不良から彼女に女将を任せてから1年も経っていないところから、彼女の先代女将
に対する思いも察することが出来た彩葉だった。
場の空気を和らげようとする彩葉の言葉だったが、社長の話がいきなり本題に入って驚かされることになった。
「実は、ずっと夫婦喧嘩が続いているのです。私の考え方と妻の考え方がずっと平行線でどうにもならず、妻の意見から女将さんの旅館にやって来たのです。
「夫婦喧嘩は犬も喰わない」という言葉があるが、それは夫婦喧嘩は他人が入って取り持つ値打ちのないつまらい問題が多いということだが、目の前にいる二人の表情には何かしら事の重大性が感じられるような表情なので彩葉も緊張を強いられていた。
やがて二人から聞いた話を総合すると、現在の旅館を取り壊して大工事を行い、ホテルとして再出発するという社長の発想に女将が旅館としてリニューアルの範囲内で済ませるべきという意見の対立だと分かった。
「将来のことを考えると人材の確保が難しいし、旅館でなくホテルとなれば部屋食が中心となって仲居の人数も減員することが出来るのです」
社長はそう言うが、女将は部屋食こそが旅館の情緒で、山間部の温泉が観光ホテルやビジネスホテルになってしまうことに反対していたのである。
「多額は借り入れをするのですが、低金利の今がチャンスだと思っているのです」
それは如何にも経営者らしい考え方だが、先代の時代から大切に伝承されている旅館の文化や情緒が消えてしまうことは確実で、反対する女将の考え方も理解する彩葉だった。
「思い立ったが吉日、急がば回れ、急いては事を仕損じるという言葉もあります。大事業なので取り返しの付かないことだけは避けなければなりませんね」
彩葉がそう言った時、「お待たせいたしました」と夫がやって来た。彼はこれまでの会話を説明を聞くと、次のようなことを言った。
「過去、現在、未来という言葉ありますが、将来を計画する時に過去が物語っていることが8割、現在が物語っていることが2割だと教えています。変革に挑戦する時に最も重要なことは『温故知新』ということで、明るい展望だけを見つめてはいけないことを語っています。新しいことに挑戦されることは素晴らしいことですが、それによって生じるリスクのことも考えておかなければなりません。我々の仕事で最優先するべきことは『お客様』のことで、それこそ客観的に分析してみる必要があるような気がします。
ここまでのやりとりからすると、彩葉夫婦の意見は女将に組するもので、孤立無援となった社長は苦しい立場となったみたいだが、彼はそんな中で「もう一度冷静になって、お客様のことを考えて、客観的立場で温故知新をしてみます」と返したので女将の表情が一瞬和んだように見えた。
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