喜美が女将をしている旅館は個人客が中心で、団体さんが来られることもないところから、居酒屋や夜食処を館内に設けていない。
温泉地の情緒を楽しもうと下駄履きで丹前姿で温泉街に出掛けるお客様もおられるが、大半のお客様は静かにお部屋で過ごされている。
夕食は部屋食となっているが午後6時、6時半・7時とスタート時間の選択が可能だが、午後7時を選ばれるお客様は少なく、何かの事情でチェックインが遅くなった場合に限られているようだった。
喜美は夫と今春に旅行に出掛けたことがあった。行先は九州の熊本県で、大地震の被害を受けた知人を見舞いに行くのが目的だったが、人気の高い「黒川温泉」とその知人から勧められた「平山温泉」に宿泊し、客の立場を学ぶ様々な貴重な体験をして来ていた。
「平山温泉」は有名な「山鹿温泉」の奥座敷と話題になり、この数年で急激に集客が増えた事実があり、研修を目的に同業他社が訪れることも多かった。
利用した旅館は各部屋が独立した離れになっており、それぞれに趣のある温泉の浴室があるので夫が「最高だ!」と何度も入浴していたが、喜美は建物の前を通る細い坂道を上がり切ったところにある露天風呂に行ったが、それは素晴らしいひとときを過ごせる環境だった。
夕食は別棟にある食事処となっていたが、地元の名産物を中心にした郷土色が感じられる演出が込められてあり、2人で「素晴らしいね」と頷き合っていた。
6時半から始まった夕食もいつの間にか午後8時半を過ぎ、「お飲み物のご追加は?」と最終オーダーの確認もあったが、ワインと日本酒で出来上がっていた二人は「もう十分にいただきました」と部屋に戻ることにした。
そして櫓こたつになっていたテーブルを立とうとした時、「これをお持ち帰りください」と竹の皮で作られた家形の物を二つ手渡された。それは「お夜食です」と説明されたので部屋に入ってから蓋を開けたら、海苔巻きのお握りが2個と香の物が添えられていた。
夫は「これ、なかなかの発想だよ。いただきだよ」と言いながら美味しそうに食べ始めたのでびっくりしたが、確かにアイデアとしてはインパクトが強いサービスだった。
そんなところから喜美の旅館も戻ってからその具現化を進めることにしたが、竹の皮の細工がどうもうまく進まず、孟宗竹の青いままを半割にして提供しているが、これもお客様から大好評のお声を頂戴している。
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