旅行会社の評価も高く、ネットの口コミサイトでも評判がよい旅館があった。真由子がこの旅館に嫁いでから10年の月日が流れ、女将になるための厳しい教育をしてくれた先代女将が1年前に亡くなっていた。
若女将から女将と呼ばれるようになってからの責務は想像していたよりも強く、それこそ真由子の心の重責となっていた。
この旅館の理念の一つに客室一室に一人の仲居という対応で、チェックインからチェックアウトまで一人の仲居が担当する形式だった。
これは先代女将の頃から始めたこの旅館の売り物だったが、真由子はこの裏面に生じている問題に気付いて悩んでいる事実があった。
それは、一人の仲居で客の評価が全て決まってしまうということで、全ての仲居を同じレベルに育て上げることは不可能で、それぞれの個性という問題はどうにもならないという焦燥感を抱かせていた。
「お世話になりました。仲居さんの対応がよかったのでまた行きたいと思っています」「担当の仲居さんがもうひとつで、ちょっと残念な思いで帰りました」
そんなメッセージのメールが届くので返信も大変だが、評価が高い仲居と低い仲居にその事実を告げてもどうにもならないことは理解しており、何か良い方法はないかというのが現実の悩みとなっていた。
真由子が女将となってから新しく取り組んだこともあった。それは、大浴場から部屋へ戻られる際のスリッパを新品のタオル地の物に変えるサービスや、部屋に到着された際のふわふわ座布団を夕食時に動き易いからと薄目に変更することで、それらは客がはっきりと気付くことから高い評価を受けていた。
また、真由子が先代女将がフロントで担当仲居を紹介していた形式を大きく変更させたのが現在の方式で、それはフロントから案内して来た仲居が部屋に着くと、中から「お待ち申し上げておりました。お客様がチェックアウトされるまで私がお世話を担当させていただきます」と登場するので、客がサプライズ的に驚き、これも高い評価の一つになっている事実もあった。
ある日のこと、夕食の時間が済んで片付けて戻って来た一人の仲居から耳にした言葉に驚くことになった。
「私が担当しているお客様ですけどね、普通じゃないのです。大浴場へ行かれた際の廊下で感じられた香りについて『これは伽羅の香りだ。それもかなり上質のものだ』と仰ったのです」
それは先代女将の拘りだった。廊下を通る客から見えないところにある香炉から漂うものだが、それに気付いて「伽羅」と言った客に興味を覚えて挨拶に行くことにした。
「失礼いたします」とノックをしてから部屋を訪れたが、客は50代の夫婦で、上品な感じがする紳士風で、何処かの大学教授みたいな雰囲気を感じた。
「女将さんですか。わざわざご挨拶に。恐縮です。大浴場のタオル地スリッパもフワフワ座布団から薄地の座布団への変更も感じ入りました。中々のご配慮ですね」
そう言われて悪い気はしなかったが、いよいよこの客が何者かという興味が強くなった。
「拘りも大変でしてね。料理長も先代の女将と同じような考え方で、メニューを変える度にお部屋の蛍光灯を変えさせ、『お造里が美しく見えるから』と言うのですが、お客様はそんなことを感じられる筈はございませんし」と言うと、次のように言われて驚きを新たにした。
「それを分からせる方法があります。それはさりげないボヤキで、女将さんがされたら駄目ですが、配膳される際に仲居さんが『当旅館の料理長が変わっていましてね、メニューが変わる度に私達の仕事が増え、蛍光灯を変えているのですが、何かお造りの色が綺麗に見えると言うのですが、本当なのでしょうかねえ』とボヤケば、お客さんはそんなことまでしているのかと驚かれて気付かれるでしょう」
真由子はこの客が普通の世界の人じゃないことを確信し、じっくりと話を聞きたくなって特別なお願いをすることにした。
「お願いがございます。様々なサービスについてご高説を拝聴させていただければと思います。私の夫、当旅館の社長も一緒にお願い出来れば」ということになり、その貴重なひとときが、またこの旅館が一層話題を呼ぶサービスを展開することになったが、それがどんなことだったかはいつかの機会に書くことにしよう。
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