今日は平日なのに満室。こんなことは珍しいが、経営する立場としては大歓迎であることは当たり前である・
部屋食での夕食が始まり、全ての部屋へのご挨拶を済ませてロビーでホッとするひとときを過ごしていた女将の哲子だが、ご夫婦で来られている奥様が浴衣から普通の服装に着替えられ、「この辺りにコンビニはありませんか?」とやって来られた。
車で5分程離れたところに小さなコンビニがあるが、こんな時間に何をお買い求めになるのかと疑問を抱いた哲子は「何をご購入されるのですか?」と聞いてしまった。
こんなプライベートな問題に触れるような哲子ではなかったが、お食事がまだ終わっていない時間帯なのになぜ?という思いもあって質問の言葉を発してしまった。
そこで奥様が返された言葉にびっくり。ご主人は夕食時には必ずお茶漬けを召し上がられるそうで、出発される前に用意されていたお茶漬け海苔をバッグの中に入れるのを忘れてしまったことが判明し、短気なご主人が「買って来い」と命じられたそうで、食事の途中に着替えられた奥様がやって来られたという事情が判明した。
「お茶漬け海苔って、永谷園のものですか?」と聞くと、「そうです。もう20年以上の習慣となっていまして、いつも旅行の際にも持参していたのですが、今回はどうやら私のミスで忘れて来てしまったようで」
永谷園のお茶漬け海苔なら哲子の夫が好んでいるところから買い置きがあり、「コンビニに行く必要はございません。私の夫もご主人と同じで欠かせないので変質しないようにお茶の缶に入れてあります。この旅館の敷地内に自宅がありますからすぐに取って参りますからお待ちください」と言って哲子は自宅へ行った。
しばらくして戻った哲子の手にはお茶の缶があり、蓋を開けると「お好きなだけお持ちください」と10パック程を出した。
「有り難うございます。これです。主人は変わっていましてね、ワサビを取り除いて海苔とアラレだけなのですから1回で2袋必要なのです。二つお願い出来ますか?」と嬉しそうな表情でそう言われたが、続いて「お幾らお支払いすれば?」と聞かれてそんな必要はないのにとちょっと寂しい思いを抱くことになった。
「そんな販売するものではございませんからご遠慮なく」と2パックを手渡すと奥様が部屋に戻って行かれたが、食事を終えて片付けに行った仲居が「女将さんによろしくお伝えください」とご主人から言われたそうで、奥様が哲子から貰ったことを説明されたことを知った。
次の日の朝、チェックアウトを済まされてご夫婦がタクシーで出発される前、「女将さんのご主人もお好きだそうですね。あれは病みつきで習慣になってしまいますからね。有り難う。お世話になりました。今度は忘れないように気を付けて来ますから」と言われてお帰りになった。
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