今日は高齢のご夫婦のお客様が宿泊されている。お二人は四国の香川県から来られているが、予約電話をくださったのは女将夫婦が常々お世話になっている医院の先生で、先生の奥様のご両親が来られていたのである。
夕食は先生ご夫婦も一緒なので4人となるが、過日に女将の清美は医院へ行って奥様からご両親のお好きな物や苦手な物を伺っており、それを料理長へ伝えてあるので4人それぞれが異なるメニューとなっていた。
食事が始まった頃に部屋に参上した清美に、先生が「この温泉地でこの旅館を選んだ理由はこんな料理への配慮で、地元の会合でこの旅館で食事になれば、誰が何を残されていたかもチェックされており、私の情報もあるので苦手な食材は一切避けられています。こんな細やかな対応をしてくれる旅館はこの地ではここだけで、知る人ぞ知るという存在なのです」と説明くださった。
するとお母様が「娘が前以て頼んでくれていたと思っていたら、わざわざ女将さんが確認のために娘のところまできてくださったと聞きびっくりいたしました。嬉しいことです。本当に有難うございます」と感謝の言葉を頂戴した。
そこへ社長である夫が参上。「いつも先生にお世話になっている最も悪い患者でございます」と挨拶すると、先生が「本当に最悪の患者でね、医者の言うことを守らないので困るのです」と言われた。
夫は飲酒の量を減らし、禁煙も命じられているのに守っておらず、このままでは成人病の典型的な生活習慣病になって後悔することになると指導されているのに、大好きなビールを減らすことの出来ないことから清美は「意思が弱い人なので困っています」と愚痴っぽく行ったので皆さんが笑われて楽しそうな雰囲気になった。
先生もお酒がお好きで専らウイスキーの水割りを飲んでおられるが、お父さんが日本酒を飲んでおられる姿を目にした社長は、部屋の中で世話を担当していた仲居に命じ、厨房の大型冷蔵庫の中に入れてあるお酒を持って来て欲しいと頼んだ。
やがて持参して来てくれた日本酒だが、その銘柄は話題の「獺祭」で、それをご覧になったお父さんが「えっ、獺祭!」と驚かれた。
社長は驚かれたことが嬉しかったみたいで、部屋の冷蔵庫の上の棚にあるグラスを4個持って来て、それぞれにその酒を注ぎ、「乾杯をしましょう」と提案。先生も苦笑いで乾杯することになった。
部屋の外の渓流の音が聞こえる。この温泉地のある場所は標高が高いこともあり、もう紅葉が始まっている。秋の夜が静かに更けて行った。
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