美也子が女将をしている旅館は都心からつながる私鉄沿線にある特急停車駅が最寄り駅で、その駅は区間急行の最終駅。ここから先は各駅停車となっていた。
この最終駅と次の駅の間に低い山があり、頂上に「願い事成就」と伝わる古い神社があり、参拝道がこの私鉄沿線の一番人気のハイキングコースとなっていた。
次の駅からの道は登山者向きで急な坂道になっているが、最寄り駅側からの道は坂も緩やかなので高齢者向きと案内され、旅館裏側の駐車場の前を通る細い道に参拝者やハイカーの姿が見られる。
美也子の旅館は夫が社長をしているが、この4月から入社した2人の女性社員に何かを教え、裏の駐車場に友人の建設会社のスタッフが入って何か工事を始めていた。
駐車場の一部の柵が撤去され、小さな小屋が建てられたのはそれから1週間後のこと。そこで何をするのかと美也子が聞くと、「参拝者やハイカーにイチゴジュースを販売する」と答え、地元を管轄する保健所への届け出もすでに済んでいるそうで、地産地消というキャッチコピーで地元のイチゴ農園と契約していることも知った。
2人の女性社員はその販売を担当することになった訳だが、夫が命じていた宿題みたいなテーマがあり、この1週間2人は真剣に相談しながら考えていたそうだった。
夫が与えた宿題というのは購入されたお客様に何かを感じていただくことで、2人が面白いことを発想していた。それは注文があってカップにジュースを入れて手渡す際の透明の蓋のことで、ストローを差し込む穴の横に手書きで文字を書くことで「有り難うございました」「またお越しくださいませ」「お気を付けて」「地産地消・最高のイチゴです」「イチゴは健康フルーツです」などが提案されていた。
やがて注文してあったジューサーが2台届き、紙コップ、ストロー、透明の蓋なども準備されて彼女達が手書きで書き込み、いよいよ販売を始めたのだが、下って来る人、これから登る人達の目に留まり、予想もしなかった売れ行きとなり、蓋に書き込まれた文字言葉も好評でブログで写真付きで掲載されたこともあり、それを目的にやって来る人も出て来たので夫は「どや顔」を美也子に見せることになった。
想像もしなかった現象として往路と復路を同じ道となる最寄り駅からのコースが増え、往復でジュースを飲まれる方も多く、隣りの駅を利用する方々が激減してしまったことである。お蔭で隣駅の近くにある土産物店から恨まれることになってしまったが、最寄り駅の駅長が「仕方がないこと」と語っていた。
そんな一方で驚いたのがイチゴを提供してくれる農園の人物で、この調子で進めば他への販売が不可能になると嬉しい悲鳴を訴えていたが、2人の新入社員達もお客さん達との会話が楽しいようで、「しばらく休みません」と、蓋への書き込み作業に取り組んでいたが、夫はそんな彼女達にプリントを手渡して担当スタッフのローテーションについて説明をしていた。
「これ、美味しい」「こんな書き込みまで。嬉しいね。また帰り寄るからね」というお客様の言葉が彼女達にとって何より嬉しいみたいで、それが遣り甲斐ということにつながっているのだろうが、美也子がそのイチゴジュースを販売前に初めて飲んだ時、「これは最高!」と思ったそうだ。
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