歴史ある旅館の女将をしている千壽子だが、数日前の夕食時に夫である社長と喧嘩をしてしまった。
犬も食わないと昔から言われている夫婦喧嘩だが、この仕事をしていると女将夫婦の夕食はお客様の食事が終わってからが多く、それは夫が「落ち着いてからゆっくりと食べたい」という考え方からそうしていたが、繁忙期にはお客様の夕食タイムが始まる前に軽く済ませておくこともあった。
喧嘩の要因となったことは夫が毎月積み立てている銀行預金。65歳になったら2人で世界一周のクルーズ旅行をという計画だったが、千壽子は夫の最近の体調のことが気になっており、体調を崩して入院でもしたら行けなくなるから行ける内に行くべきで、「借金しても行くべきよ」という極端な発言まで飛び出したのだから口論が酷くなったのは言うまでもない。
しかし、千壽子のその発言に何か感じるところがあったようで、夫は次の日に銀行に行って「解約することは可能だろうか」と相談したみたいで、「このところ病院で検査を受けることが続いており、数年後に身体が動かなくなって病院の天井を見ながら後悔したくないので」と伝えたら、担当してくれた銀行の次長が「可能です。お客様のご預金ですから
」と言ってくれて安堵したそうだが、4月を迎えてからお願いしたいと懇願されて来ていた。
銀行の決算付きは3月末で、預金残高が減ることは支店という立場からすると避けたいからで、それについては夫も了解して来ていたと知った。
高齢のご夫婦で来られるお客様のお世話をしていると考えさせられることも多く、中には車椅子が不可欠というケースを目にすることもあり、千壽子の旅館にも4年前にバリアフリーの部屋を2室リニューアル工事したように、それも常識の時代を迎えているのも事実である。
この仕事をしていると2人揃って旅行に出掛けるということは簡単なことではないが、どちらかが車椅子生活になったらその時に後悔することは当然で、「春になったら積立金を解約することにして、国内旅行にでも行こうではないか」という夫の言葉に喧嘩問題は治まり、どこへ行くかの会話は想像以上に楽しいもので、これまでの夫婦間の会話が180度変わった気がした千壽子だった。
そうなるとお客様達との会話の内容も変わって来るもので、お部屋に参上した際にご夫婦のご旅行体験やお考えを拝聴することの楽しみが倍加したような気がした。
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