これまでに何度かご利用くださっているある出版社の担当者の方から、「また1週間ぐらいの連泊を」と依頼された。
今度は自社の週刊誌で連載している小説の作家で、完結分までの原稿をいただいているそうだが、ご本人が「書き直したい」と変更を申し出て静かな房江の旅館に缶詰め状態ということになった。
「わがままな人物なので我々も困っているのだけど、ご存じのように人気の高い作家なので仕方がないのでよろしく」と言われたが、「食事は言われた通りに対応して欲しい」「担当する仲居さんは若くて美人を」と笑いながら注文をされてびっくり。仲居が襲われはしないかと余計な心配の冗談で返すやりとりとなった。
60代の著名な作家だが、昔から交友関係のある編集長からの依頼で初めて週刊誌の長編小説の連載を引き受けて貰ったらしいが、約半年分の原稿が書き上げられて完成していたのに、何かのきっかけで考え方が変わり、ストーリーを大きく変更するということになったそうである。
同行して車で送って来たのは前に来られたことのある担当者の方で、作家が部屋に入られてからロビーに来られ、女将に今回の秘められた経緯について教えてくれた。
「実はね、ずっと愛人だった方が亡くなられてしまってね、その方は信じられない話だけど奥様公認の方だったのだよ」
この話は10年ほど前に女性週刊誌で話題になったことがあるので房江も知っていたが、奥様が入退院を繰り返す重い持病があり、身の回りの世話をすることから公認していたというものだった。
担当者が「それではお願いします」と帰られた後、房江は作家の部屋へご挨拶に参上した。
「人は、辛い思いをしただけ人に優しくなれるという体験があってね。どうしても書き直したくなって彼に無理をお願いしたのだけど、こんな静かでいい旅館でよかったよ。よろしくお願いしますね」
大切な方を亡くされた悲しみが大きな変化を与えたようだが、房江はこの作家が立派な人格の紳士だということを確信。担当者から言われていたことが冗談で杞憂であったことを知り、心の中で「ごめんなさい」と謝罪していた。
早かったら5日、遅かったら10日ぐらいの連泊予定と伺ったが、房江はこの人物のお世話をする仲居を二人体制にすることとし、超ベテランの仲居頭と若い新人に命じることにした。
特に気を付けたいのは食事のことだが、一方通行的にサービス提供するのではなく、お電話を頂戴してからお届けに参上する配慮を伝えておいた。
これまでに何度か作家の方を同じような形式でお迎えしたことがあるが、草稿されている時に突然参上することはご法度で、時には食事の時間が大幅に遅くなったり早くなったりするペースに対応することが大切だった。
そんな対応が投宿された作家の感想から出版社の担当者に伝わっていたようで、今回も房江の旅館を選んでくださった訳だが、いつでも大浴場の利用が可能な対応と、仲居頭と新人が伺って来たお好みのメニューを料理長に伝え、全スタッフが作家の邪魔にならないような環境を提供しようと取り組んだ。
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