今日は朝から料理長が落ち着かない。5日前に電話があってご夫婦で来られるお客様のことで、事務所内の予約担当スタッフにも料理長自身が申し込みをしていた。
女将の結華も事情を聞いており、この2日間が無事に通り過ぎることを社長である夫と二人で願っていた。
来館されるのは料理長の師匠に当たる人で、2年前まで国内を代表する料亭の総料理長を担当していた人物で、ご夫婦互いの健康問題から現役を引退され、全国に点在する弟子達のいるホテルや旅館を利用するのを楽しみにされており、料理長も兄弟弟子に当たる人物から師匠のそんな最近の行動を聞いていたが、こんなに早く自分の旅館に来られるとは思っていなかった。
料理長は電話があってから悩んでいた。どんな料理でおもてなしをするかということだが、単なる和風会席では対応したくなく、女将と社長のアドバイスから創作料理を中心にご用意することにし、ご到着されてお部屋にご案内した際にご夫婦それぞれのご好物を確認することにしており、その役は部屋担当の仲居頭に任されていた。
昔の料理社会の厨房内は想像出来ないほど厳しいものだそうで、器や食材の仕入れの権限も全てを料理長が掌握しており、大規模なホテルでも総支配人待遇のレベルということも少なくなかった。
結華の旅館には先代社長が蒐集していた特別な食器があった。全国の窯元を訪ね歩いて長年掛かって集めたもので、中には国宝級と称される器もあった。
社長の提案でその食器を自由に使ってもよいという許可が出て、料理長は何より嬉しいことだと喜んでいたが、電話を受けてからずっと特別な食材探しに取り組んでいた。
昼過ぎに様々な食材が届いた。肉、魚、野菜、乾物、花かつを、味噌、醤油など厳選された物ばかりが届いたが、それらを厨房の台の上に並べて「これなら」という表情を見せながら、下準備に取り組んでいた。
ご夫婦が到着されたのは午後4時過ぎ。社長と女将、そして料理長がお迎えしたが、久しぶりに再会することになったこともあり、お元気な姿でご来館くださったことに心から歓迎しようと思う結華だった。
部屋へ案内した仲居頭の情報が伝えられた。お二人はどちらも高血圧症で血糖値が高いので医師から処方された薬を服用しているそうだ。そこから想像出来る病気は糖尿病の可能性もある。管理栄養士さんが教えてくれたレシピのメモを確認しながら、料理長のオリジナルな特別料理を提供することになった。
夕食が始まってしばらくした頃、社長と結華と共に料理長も同席し、修業時代の昔話を聞くことになった。
「彼はね、大人しい性格だったが弟子仲間に遅れないようにと一人で勉強していたことを知っており、それが見事に開花してこんなに素晴らしい料理を提供出来るようになって嬉しい限りだ」
そして器に興味を抱かれたみたいで、先代社長の蒐集品であることを説明すると、一つの器を手にされて「これ、魯山人の作品だよ。よくぞ入手されることが出来ましたなあ」と感心されていた。
次の朝、朝食を済ませてからご機嫌でチェックアウトをされたが、「体に気を付けて美味しい料理を心がけてな」という言葉を残してタクシーで出発された。
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