比呂子がこの旅館の後継者に嫁いで若女将となり、やがて女の子が誕生して育児をしながら業務を手伝っていたが、先代女将が「孫の誕生」を心から喜んで可愛がってくれ「私が育児を担当するからあなたはしっかりと将来の女将としての仕事を」なんて言われていたことが懐かしい。
その先代女将も8年前に亡くなられたが、比呂子が女将を継いだのは14年前のことで、子供が中学生になった頃で、その娘も大学を卒業してから若女将として従事している。
娘が大学受験の勉強している頃だった。3人家族の夕食時に夫が予想もしなかったことを言い出した。その半年前頃から「気になっている」という言葉に、まさかそんなことをというびっくり会話のひとときとなった。
「テレビのCMを観ていてね、体験してみようかと思い始めてね」
それは髪が薄くなり始めたようだという夫の目に留まったCMで、誰もが知る大手ヘアーかつらの会社のものだった。
「体験入会というのがあるそうで、脱毛の原因を調べてくれたり様々な育毛剤の紹介もあるようなので」
夫の遠慮気味な喋り方に援助するように発言したのが娘で、「行くべきよ。体験して来たら良いと思うわ。私は賛成。お母さん、パパを行かせて上げて。お願いだから」
続いて娘が学校の英語担当の先生がそこに通っていることを話してくれ、それが奥さんの勧めからだということも教えてくれた。
そんなやりとりと事情を知らない人が聞いていたらきっと夫のことを入り婿のように誤解されてしまう雰囲気があったが、それが夫の性格で、何でも遠慮気味に喋るのが夫の特徴だった。
比呂子の旅館のある温泉地の最寄り駅は在来線だが特急停車駅で、1時間に1本運転されているので不便はなく、都市の中心駅まで1時間と少しなので何か買い物があると特急列車を利用してデパートへ出掛けていた。
当時はインターネットなんて存在しない時代。情報はテレビや新聞の広告で入手することが中心だったが。夫はテレビのCMに流れる中で問い合わせの電話番号を控えており、明日の午前中に体験予約の電話をするということになった。
次の日、事務所ではなく自宅の部屋の電話で予約したみたいで、「今日の午後の予約が取れたよ。体験なので1万円だそうだ」と見たこともない表情で比呂子に話した。
その日、早めに昼食を済ませると支配人に車で駅まで送って貰い、「ちょっと人と会って来るよ」と言っていたそうだ。
暗くなった頃に夫が帰って来た。手提げ袋を幾つもぶら下げている。新館に隣接する離れが自宅になっているが、そこに比呂子を呼ぶと手提げ袋の中身を出してテーブルの上に並べ、体験して来たことを話し始めた。
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