団塊世代の人達が定年を迎える前の頃から、旅行会社の企画に大きな変化が生まれ、高額な費用を掛ける旅行を対象にした専用の窓口を設けたところも登場し、世界各国の地域を分けて海外旅行する企画の説明会を開催することも増えたが、何処も盛況となっていた。
退職金と共に年金受給となる生活もあるし、中にはそのまま嘱託で勤務を続けるケースや、まだ若いから働けると新しい仕事に従事する人も少なくなく、旅行に対する計画も様々な情報を得ている社会となっている。
団塊世代の特徴で突出していることは戦後のベビーブームから同年代が多いことだが、定年を記念して夫婦の旅行を考える人達も多く、旅行予算も想像以上に高額で、温泉地でも露天風呂付きの上級客室に人気が高まっていた。
そんな社会状況に対応するように大規模なリニューアル工事を決行した旅館の女将が智美だが、数年前に先見した社長である夫の決断が英断だったと思うこの頃だ。
リニューアルで重視したのは露天風呂のある客室を増やしたことと高齢者向けの部屋設計に取り組んだこと。部屋数は少なくなったが、その分は客室提供価格のアップが可能になって予想以上の売り上げアップにつながっているし、客室稼働率も随分と高くなったので喜んでいた。
時代の流れだろうか、智美が反対した上級フロアという発想は社長の決断で進められてしまったが、上層階である7階と8階の部屋を全て露天風呂付きにしたら、そのフロアから予約される現実に驚きながら、このまま続くのだろうかという不安も離れてはいなかった。
大規模な旅館ということから全室を回ってご挨拶は無理なので、その二つのフロアだけ訪れるようにしているが、ある日のこと、お客様からびっくりする言葉を掛けられて考えさせられることになった。
「失礼します」と食事時間に参上した時のこと、高齢のご夫婦のご主人が次のように言われたのである。
「女将さん、あなたはあなたをこの世に生んでくれたご両親に感謝をしなさい。如何にも女将さんに向く顔をされているからだし、育まれた環境でそうなった人相に対して感謝をしなければならないのです。人相というものはこれから変化することも理解しておきなさい。お客様のことを二の次にして金儲けを優先させるとそんな表情に変化してしまうのです。いつも鏡で自分の顔を見ながら、その変化に気付く生活を続けなさい」
こんなことを言われたのは初めてのことだったが、リニューアル後に予想以上の相乗効果が生じて嬉しく思っていた心を見透かされたような気がして、その人物の顔をまっすぐに見ることが出来なかったことに気付くことになり、自室に戻ってから鏡で自分の顔を見ることになった。
人相は日常生活の日々で変化するというのは常識みたいで、詐欺師には詐欺師の顔、刑事には刑事の顔というものが形成されてしまうそうだが、高齢を迎えて現役から引退されて一気に表情が優しくなられた人物が身近にいることもあり、この印象深い言葉を教訓として忘れないようにしようと思った智美だった。
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