稲子が女将をしている旅館は、今日は休業となっている。1年に1回だけ定期的に行われる源泉からの引き込みパイプの交換で、泉質の問題から耐久性に神経を遣わなくてはならず、もしも大浴場の温泉に不具合が発生したらそれこそ命取りになる危険性があり、2年に1回でよいという工事を1年毎に実施している、
この休業日はスタッフの全体会議で、誰もが自由に発言出来る環境を大切にしており、ここから新しい幾つものサービスが誕生したこともあるので稲子も夫である社長も楽しみにしていた。
会議が始まるのは午後1時からだが、12時に集合となっており地元の仕出し屋さんから幕の内弁当を手配しており、昼食後に支配人が進行係となって進められる。
今日も明日から実行という提案がすぐに飛び出した。発言者はこの4月に入社した新人スタッフで、フロントに掛かって来るお客様からの電話対応でお客様のお名前を申し上げるようにしようというものであった。
「お待たせいたしました。田中様、フロントの鈴木でございます」と対応することは「フロント鈴木でございます」より相手に与える印象がよいのではという提案だった。
大規模な施設ではないし、部屋からの内線電話はどの部屋から掛かって来たかはすぐに分かるものだが、ランプが示す部屋番号にお客様のお名前を貼り付けておけば憶えておく必要もないし、誰もがすぐに対応出来ることだった。
「明日からそうすることにしよう。良い提案だ」
社長がそう言って発言者を褒めたら、続いて彼が、また斬新な意見を提案してくれた。
「私、この旅館に入社してから考えていたことですが、お客様からご要望があった場合、お電話でもそうですが『かしこまりまりた。すぐに』と返す言葉が曖昧に思えてならないのです、『5分以内に』のように具体的に時間を伝えると安心感が生まれるでしょうし、『すぐに』という言葉で勝手な想像が生じる危険性がないと思うのです」
この会議室に集まっていた全員が、彼が普通でないような存在と感じた。これまでに行って来た単なる親睦会のような雰囲気ではなく、間違いなく実りある学びの意見が提案されているからで、社長も稲子も彼のこれまでの生い立ちに興味を抱きながら、素晴らしいスタッフが入社してくれたと喜んでいた。
ビジネスの世界のやり取りでも、「昼頃に」と伝えても具体的に時間の観念は相手によって受け取り方が異なってしまい、午前11時50分も午後1時10分も「昼頃」に含まれると考えると恐ろしく、具体的に「午後1時までにお届けいたします」と伝えた方がよいだろう。
葬儀の司会者として著名な人物は、お寺などで行われている大規模な葬儀の中で、スピーカーから読経の声が流れ始めると参列に対する御礼のアナウンスを入れ、続いて各種団体代表者の指名焼香の始まる時間を伝えるそうで「午後1時半頃」なんて曖昧ではなく、「午後1時29分や「午後1時31分」を予定していますと言うと、それを聞かれた参列者が腕時計を見るような仕種をされ、待つ時間が「本当かな?」と興味を抱くことから短く感じさせる効果があるそうだが、その人物の凄さは親戚の人数や読経の早さなどを経験から分析し、その時間にぴったりと始まるということも有名な逸話として知られている。
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