チェックアウトで全てのお客様をお見送りしてロビーへ戻った時だった。清掃を始めていた仲居の一人が、滝のある中庭のガラス張りの近いソファーに携帯電話があるのを見つけ、フロントへ持って来た。
それは、間違いなくお客様の忘れ物。ひょっとしたらポケットから落ちたことに気付かれなかったのかもしれない。
フロントの横に戻っていた女将の弥生は、それに対して次のような対応をするように命じた。
「すぐに旅館名の入った貴重品袋に入れ、封印をしなさい。そして拾得した時間と封印した時間を封筒の表側に明記しておいてください」
そこでフロントスタッフが貴重品専用の封筒を取り出し、表側に「拾得10時21分、封印10時22分」と書いて封を閉じた。
しばらくすると事務所の電話が鳴っている。それはチェックアウトをされてお帰りになったお客様からで、「携帯電話を忘れていませんでしたか?」というものだった。
車で来られていた方で、近くの国道にある「道の駅」で地元の野菜を購入しようと立ち寄られた際に気付かれたそうで、「お預かりしています」と伝えるとすぐに来られると言われたそうだ。
30分も経たない内にそのお客様が来られた。ご主人の還暦の記念旅行に来られたご夫婦で、ご主人はマッサージ、奥様はエステで寛がれ、「これで長生き出来るような気がしたよ」と言われて帰られたので弥生はその会話をしっかりと憶えていた。
「いやあ、助かったよ。何処かで落としていたらどうしようかと思ってこちらへ電話をしたら見つかってホッとしました」と言われ、事務所の金庫の中から貴重品袋をフロントのテーブルの上に置いたら、「ええっ、貴重品袋に入れてくれているの」と驚かれ、その封筒の表側に書かれている拾得時間と封印時間を目にして更に驚かれ、「さすがに知られる旅館らしくて感銘を受けました」と感謝された。
考えてみれば携帯電話にはプライベートな問題がいっぱい存在している。発信先、受信相手だけではなくメールまで見られる訳で、忘れてしまったり落とした側からすると想像以上の微妙な問題がある。それらを「見ておりません」と無言で訴えるのが「拾得時間」と「封印時間」の明記で、忘れたお客様が偉く感動された訳である。
体感に勝ることなしという言葉があるが、8年前に弥生も新幹線の中で携帯電話を落とした体験があり、東京駅の八重洲口側にある保管場所で書類を書いて受け取った時に抱いた心情からこの対応に至った歴史があった。
その出来事は、お客様が発信されているブログに感動した出来事として紹介され、訪問された方々が「素晴らしい対応ですね」と添えてくださっていたことが嬉しかった。
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