単なる移動手段ではなくなったと言われる列車の世界だが、あちこちで次々にユニークな観光列車が登場している。
過去に触れた「或る列車」は、まだ運転されていないが、今夏の8月8日から大分駅と日田駅間で走行される予定で、秋からは佐世保と長崎駅間でも運転される。
「或る列車」は実際に幻の列車として製造された歴史があるが、線路を走ることに至らなかったところからJR九州が再現しようと企画したものだが、鉄道ファンの期待と注目を集めている。
この列車のキーワードは「スイーツ」で、最近の話題になっている甘いグルメを対象にしており、運転される列車の半分はJR九州が企画構成しているが、残りの半分は旅行会社が企画募集をするシステムとなっている。
「スイーツ」を売り物にする列車は数日前から東北でも運転されている。「フルーティアふくしま号」で、土曜日と日曜日の限定となっているが、郡山駅と会津若松駅間の定期列車の一部に増結されて運転され、福島県産のフルーツなどを中心にしたオリジナルスイーツをアテンダントが担当してくれる「走るカフェ」と企画されている。
鉄道会社も観光客を集めるためにユニークな企画を打ち出しているが、大都会の東京の真逆を発想した列車の存在もあるので面白い。信州の千曲川沿いを走る「おいこっと」という名称の列車だが、「TOKYO」というローマ字読みを反対に読んで「OYKOT」となっている。
車内で販売される「野沢菜」のパックが人気だそうだが、これもご当地グルメ的な地消地産ということなのかもしれない。
前号で紹介した「おとなび」のことだが、「ジパング倶楽部」では往復で201キロ以上という条件があるが、「おとなび」では片道101キロ以上と緩和条件となっているし、入会出来る年齢も我々の年代よりも若い人達が対象になっている。
JR東海がシニア向けの割引切符を売り出し、若い人達から「シニア向け」ばかりが優先されているという指摘の声が多かったが、高齢社会の到来は、こんなところにもターゲットとして考えられているようだ。
さて、今日の新聞に抑留されて亡くなられた不幸な方々の名前が発表されていた。まだ公開されていない人達も多く存在するそうで戦争の悲劇を物語る現実と衝撃を受けたが、この抑留に関して幼い時代の思い出が残っている。
伯父がその体験者で、舞鶴港へ戻る最後の船に乗船していた事実があり、出身地である三重県伊勢志摩の地へ帰還した際の光景を記憶している。
現在は近鉄志摩線となっているが、当時は志摩電鉄となっており鳥羽駅と賢島間を結んでおり、現在の「上之郷」駅が「志摩磯部駅」で、そこに母に連れられて大勢の迎えの人達と待っていたのだが、伯父は真っ白な布を首から掛け、現地で亡くなられた戦友達の遺骨を持ち帰っており、当時の新聞記事に大きく採り上げられていた。
今日の写真は近鉄志摩線の「上之郷駅」を。1970年までは志摩磯部駅となっていた。ここで紹介した伯父は地元の議員として活動した歴史があるが、スペイン村が計画された
当時の当事者でもあった。
過去に触れた「或る列車」は、まだ運転されていないが、今夏の8月8日から大分駅と日田駅間で走行される予定で、秋からは佐世保と長崎駅間でも運転される。
「或る列車」は実際に幻の列車として製造された歴史があるが、線路を走ることに至らなかったところからJR九州が再現しようと企画したものだが、鉄道ファンの期待と注目を集めている。
この列車のキーワードは「スイーツ」で、最近の話題になっている甘いグルメを対象にしており、運転される列車の半分はJR九州が企画構成しているが、残りの半分は旅行会社が企画募集をするシステムとなっている。
「スイーツ」を売り物にする列車は数日前から東北でも運転されている。「フルーティアふくしま号」で、土曜日と日曜日の限定となっているが、郡山駅と会津若松駅間の定期列車の一部に増結されて運転され、福島県産のフルーツなどを中心にしたオリジナルスイーツをアテンダントが担当してくれる「走るカフェ」と企画されている。
鉄道会社も観光客を集めるためにユニークな企画を打ち出しているが、大都会の東京の真逆を発想した列車の存在もあるので面白い。信州の千曲川沿いを走る「おいこっと」という名称の列車だが、「TOKYO」というローマ字読みを反対に読んで「OYKOT」となっている。
車内で販売される「野沢菜」のパックが人気だそうだが、これもご当地グルメ的な地消地産ということなのかもしれない。
前号で紹介した「おとなび」のことだが、「ジパング倶楽部」では往復で201キロ以上という条件があるが、「おとなび」では片道101キロ以上と緩和条件となっているし、入会出来る年齢も我々の年代よりも若い人達が対象になっている。
JR東海がシニア向けの割引切符を売り出し、若い人達から「シニア向け」ばかりが優先されているという指摘の声が多かったが、高齢社会の到来は、こんなところにもターゲットとして考えられているようだ。
さて、今日の新聞に抑留されて亡くなられた不幸な方々の名前が発表されていた。まだ公開されていない人達も多く存在するそうで戦争の悲劇を物語る現実と衝撃を受けたが、この抑留に関して幼い時代の思い出が残っている。
伯父がその体験者で、舞鶴港へ戻る最後の船に乗船していた事実があり、出身地である三重県伊勢志摩の地へ帰還した際の光景を記憶している。
現在は近鉄志摩線となっているが、当時は志摩電鉄となっており鳥羽駅と賢島間を結んでおり、現在の「上之郷」駅が「志摩磯部駅」で、そこに母に連れられて大勢の迎えの人達と待っていたのだが、伯父は真っ白な布を首から掛け、現地で亡くなられた戦友達の遺骨を持ち帰っており、当時の新聞記事に大きく採り上げられていた。
今日の写真は近鉄志摩線の「上之郷駅」を。1970年までは志摩磯部駅となっていた。ここで紹介した伯父は地元の議員として活動した歴史があるが、スペイン村が計画された
当時の当事者でもあった。
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