午後から幹部会議が行われた。出席者は女将の芙由子の他に夫である社長、支配人、副支配人、仲居頭、料理長と事務所の統括責任者である男性スタッフだった。
議題テーマの一つに社長から提案された予想もしなかった問題が出て来た。それは食事処で流しているBGMの変更で、現在は料理長の得意分野である和風会席から「琴」の音色が流されていた。
芙由子の旅館は随分昔から有線放送を二つも契約しており、一つはロビーに流すもので、もう一つが食事処で流しているものだが、チャンネルがいっぱいあっても別々に流すことが出来ないところから必要経費と考えて二つも契約していたのである。
有線放送の会社から「ホテルや旅館が貴社のような考え方だったら歓迎なのですが」と言われたが、市販されているCDをデッキでBGMとして流すことは厳密に言うと著作権問題に抵触することから、指摘されることが大嫌いという社長の性格から対応していた歴史があった。
「食事処で流れている琴の音色を止めてどんな音楽を?」と仲居頭が質問すると、社長が「イージーリスニングを静かに流しておくのです」と答え、男性スタッフに命じてそのチャンネル番号を伝え「実際に聞いて雰囲気を確かめて欲しい」と提案した。
しばらくすると優しくて上品な旋律が流れ、すでに何度も確認していたみたいで、社長はが次のような内容の話をした。
夕食で過ごされる食事処に如何にも和風というイメージの琴の曲を流してもただそれだけのことだが、楽しいひとときを過ごしている時に耳にした音楽は何処かにインプットされるもので、その曲を何処かで耳にされた時にこの旅館でのひとときを思い出されることになり、琴の名曲「六段」や「春の海」であっても、和風料理のファミレスぐらいしか流れていない現実を考えるべきという意見だった。
芙由子は自分が食事をしている時のイメージを考えていた。そこで耳にする音楽のことを気にするだろうかと思うこともあったが、自分の知っている好きな曲が流れて来たら会話の種になることも事実で、「何処かで耳にされた時に」と言う社長の提案に一理あると興味を覚えた。
最も抵抗感があるのではと思っていた料理長が、「私の創作料理は流れる音楽で左右されるようなレベルではありませんよ。琴であろうがオーケストラであろうがどちらでも構いませんよ。私はお客様の六感が料理に向けられるように尽力をしますから」と発言し、社長の提案したBGMの変更は取り敢えず実験的にやってみようということになった。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、社長の提案に考える」へのコメントを投稿してください。