最近では「グルメ」という言葉が目立つが、昔は「食通」という呼称があり、北大路魯山人が知られるが、彼は「美食家」という冠の方が合うだろう。
書道家、篆刻家、陶芸家、料理家、美食家として語り継がれている人物だが、会員制の高級料亭まで関係していたのだから驚きである。
江戸時代から名湯として人気がある温泉地だが、悦子はそんな中の旅館の女将をやっており、趣味は陶芸で、あちこちの窯元を訪れることが楽しみだった。
備前、萩、伊万里、有田、九谷、清水、信楽なども行ったが、まだまだ行きたいところがいっぱいあり、何とか時間を作って行きたいと思っていた。
いつも目に留まった器を購入して来るが、それらは決してお客様のお食事の食器にすることはなく、それはかの北大路魯山人の影響を受けていた先代から教えられたことであり、食器は料理長の世界という結界を頑なに遵守しているものだった。
料理長自身が窯元に出掛けて購入して来たり、自分のイメージする物を焼いて貰ったりすることもあるが、そんな専門家が商品を持参してセールスに来ることもあり、その時は悦子も同席することにしていた。
先代から教えられたことがある。器や食材は料理長の分野で、その仕入れに関するリベートの事実があっても当たり前と考えなさいということで、旅館は表の顔として女将が存在し、裏側の顔として料理長が存在するということになるだろう。
日本を代表するホテルでも総料理長が役員待遇されていたことも知られているが、ホテルや旅館で料理長という立場はそれこそ看板ということになる。
ホテルの総料理長が講師をするセミナーに悦子が参加したことがあるが、その時に総料理長が紹介した逸話が印象に残っている。
「私のホテルのレストランに月に1回だけ来られるご夫婦があり、ご注文をされた物がテーブルの上に運ばれてしばらくしてから私がお料理の説明に行くのです。それでその料理が3万円の価格でも10万円の価値観が生まれるのです。これは受講者の皆さんにご理解いただくために敢えて高額な金額を言いましたが、そのニュアンスを感じていただければ幸いです」
悦子は北大路魯山人に関する文献を読んだ際に印象に残っているのが頑固一徹な芸術家特有の性格で、阪急グループの創業者である小林一三氏が北大路魯山人の作品に魅かれ、百貨店で紹介する企画を進めたが、「出来るだけ安く」と手紙に書いたら企画を取り止めるようにと返信が届いたという逸話だった。
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