前号で「ファーストクラス」について触れたが、過去に面白い体験をしたことがある。当時の国際線では「リコンファーム」が当たり前で、現地で出発の72時間前までに予約の再確認の連絡をしなければならず、言葉の問題から地元の旅行会社に手数料を支払って代行電話をして貰うこともあった。
サンパウロの小さな旅行会社を見つけて航空券を見せて「リコンファーム」とお願いしたら、航空券に記載されていた「F」の文字に「ファーストクラス!」と驚かれた。
当時の飛行機はボーイング「707型機」で、ファーストクラスとエコノミークラスの2クラスしかなく、エグゼブティブやビジネスクラスという言葉もなかった時代である。
往路に利用したのはバリグ・ブラジル航空という航空会社だったが、ファーストは12席となっていた。生まれて初めてキャビアとフォアグラを目にしたのがこの機内だったが、病的な偏食から訳の分からないものを食することはなかった。
アメニティグッズの他に高価なチョコレートの詰め合わせを貰ったし、「極東支配人からです」と言われて航空会社名の入った洒落た2種類のバッグをプレゼントされたのでびっくりしたが、その内の肩から下げるタイプのバッグは社会に未発表だったらしく、便利なので早速使ったら、空港のカウンタースタッフから「どこで手に入れたのですか?」と質問され「譲ってくれ」と付き纏われた。
その極東支配人という人物とは大阪駅前にあったホテル阪神のビルで会っていた。出発する半月前ぐらいに旅行会社に勤務する友人が連れて行ってくれたものだが、このビルの中に航空会社の支社があったからである。
そんな経緯から特別な配慮をして貰えることになり、トランジットで気掛かりとなる言葉の問題をクリアして貰うところから、ロスアンゼルス、ペルーのリマ、リオデジャネイロ、サンパウロの空港で、タラップを降りたところで私の名前を書いたボードを手にした女性スタッフの対応までしてくれ、お蔭で本当に心配なく通過することが出来た。
当時は成田空港の存在はなく、羽田発着となっていたが、最も驚いたのは前日に宿泊していたホテルの部屋に電話が掛かって来たこと。それは極東支配人ご本人からで、機内食のメニューについて特別に配慮してくれているという報告で恐縮した。
そうそう、当時のブラジルは外貨不足が深刻で、ブラジル国籍の人が外国に行くには国に保証金のような積み立てを要し、30万円以上をドルに換えることは出来なくなっていた。当時のレートは1ドル「260円」ぐらいだったと記憶しているが、寺田町駅の横に今でもある銀行でマンガみたいな出来事を体験している。
アメリカドルに交換したいと行ったのだが、ロビーで対応している男性スタッフが面倒そうな表情だったのに、金額を伝えると一変して応接室に通されたからである。
ネットもない時代、ましてやブラジル国内の情報も少なかったことから、手配をしてくれた旅行会社の友人のアドバイスもあり、クレジットカードの国際性も弱く、多額の両替をして行った訳だが、前述のブラジル国内のドル不足から、どこかで日本からの旅行者であることを知った人達から「レートが高くてもよいからドルと交換して欲しい」と懇願されて困惑したことも懐かしい。
因みにこれは「闇の交換」となるので禁止されており、現地でお世話になった人物が日本人会の有力者でガードくださったので助かったが、そうでなかったら大変だったと想像する。
今日の写真はキャンベラ駅構内。日本の「みどりの窓口」みたいなところである。
サンパウロの小さな旅行会社を見つけて航空券を見せて「リコンファーム」とお願いしたら、航空券に記載されていた「F」の文字に「ファーストクラス!」と驚かれた。
当時の飛行機はボーイング「707型機」で、ファーストクラスとエコノミークラスの2クラスしかなく、エグゼブティブやビジネスクラスという言葉もなかった時代である。
往路に利用したのはバリグ・ブラジル航空という航空会社だったが、ファーストは12席となっていた。生まれて初めてキャビアとフォアグラを目にしたのがこの機内だったが、病的な偏食から訳の分からないものを食することはなかった。
アメニティグッズの他に高価なチョコレートの詰め合わせを貰ったし、「極東支配人からです」と言われて航空会社名の入った洒落た2種類のバッグをプレゼントされたのでびっくりしたが、その内の肩から下げるタイプのバッグは社会に未発表だったらしく、便利なので早速使ったら、空港のカウンタースタッフから「どこで手に入れたのですか?」と質問され「譲ってくれ」と付き纏われた。
その極東支配人という人物とは大阪駅前にあったホテル阪神のビルで会っていた。出発する半月前ぐらいに旅行会社に勤務する友人が連れて行ってくれたものだが、このビルの中に航空会社の支社があったからである。
そんな経緯から特別な配慮をして貰えることになり、トランジットで気掛かりとなる言葉の問題をクリアして貰うところから、ロスアンゼルス、ペルーのリマ、リオデジャネイロ、サンパウロの空港で、タラップを降りたところで私の名前を書いたボードを手にした女性スタッフの対応までしてくれ、お蔭で本当に心配なく通過することが出来た。
当時は成田空港の存在はなく、羽田発着となっていたが、最も驚いたのは前日に宿泊していたホテルの部屋に電話が掛かって来たこと。それは極東支配人ご本人からで、機内食のメニューについて特別に配慮してくれているという報告で恐縮した。
そうそう、当時のブラジルは外貨不足が深刻で、ブラジル国籍の人が外国に行くには国に保証金のような積み立てを要し、30万円以上をドルに換えることは出来なくなっていた。当時のレートは1ドル「260円」ぐらいだったと記憶しているが、寺田町駅の横に今でもある銀行でマンガみたいな出来事を体験している。
アメリカドルに交換したいと行ったのだが、ロビーで対応している男性スタッフが面倒そうな表情だったのに、金額を伝えると一変して応接室に通されたからである。
ネットもない時代、ましてやブラジル国内の情報も少なかったことから、手配をしてくれた旅行会社の友人のアドバイスもあり、クレジットカードの国際性も弱く、多額の両替をして行った訳だが、前述のブラジル国内のドル不足から、どこかで日本からの旅行者であることを知った人達から「レートが高くてもよいからドルと交換して欲しい」と懇願されて困惑したことも懐かしい。
因みにこれは「闇の交換」となるので禁止されており、現地でお世話になった人物が日本人会の有力者でガードくださったので助かったが、そうでなかったら大変だったと想像する。
今日の写真はキャンベラ駅構内。日本の「みどりの窓口」みたいなところである。
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