今日宿泊の予約をされている中に気になるお客様がいた。1年前の同日にご夫婦でご利用くださったのだが、今回は奥様と娘様だそうで、ご主人が来られないのが気になっていたのである。
女将の菜穂はそのご夫婦が宿泊された時のことをはっきりと憶えている。担当の仲居が「ご主人がお料理に手を付けられず、出来るだけ柔らかい粥を焚いて欲しい」と言われ、料理長が粥を焚き、独自の秘伝の出汁を入れたところから「こんな美味しい粥は初めてだ」と喜ばれ、次の日の朝食にもご要望されたからだった。
今回のご利用で二つのお願いを聞いていた。一つは前回に担当した仲居が担当することと、あの「粥」を食べさせて欲しいということだが、それならなぜご主人が来られないのだろうかと疑問を抱く菜穂だった。
夕方、そのお客様がご到着された。最寄駅からタクシーで来られのだが、玄関にいた菜穂の姿を見てすぐに近付き「1年前はお世話になりました。今日は娘と来ました」と紹介くださった。
指名されていた仲居が部屋に案内していたが、15分ほどすると仲居がフロントに戻り、前掛けで涙を拭いている。何か問題でも発生したのだろうかと気になった菜穂が近付くと、「女将さん、私悲しくて堪りません」と泣き崩れた。
そんな姿をお客様に見せることは避けなければならず、フロント横の扉から事務所内に連れて入ったが、周囲が皆「何事か?」と心配の表情になっている。事情を確認しようと菜穂が言葉を挟んだ。
「どうしたの?何が悲しいの?」
「前回来られたご主人が半年前に亡くなられたそうで、奥様の心の傷を癒されようとご主人が語っておられたこの旅館のことを思い出されて来られたのですが、浴衣をお出しすると、『そうそう、あの時に主人に私が着せて上げたのだけど、M寸でも少し大き過ぎておかしかってね、でも主人が何枚も浴衣の袖を通すと旅館に気の毒だと言ったのよ』と思い出話をされ、続いて料理長のお粥の話題になりましてね。何しろあのお粥のことを命じられたのは私で、お心付けをいただいたことも思い出して悲しくなってしまったのです」
仲居の話によると小さな額のご遺影も持参されているそうで、菜穂は料理長に事情を伝えて「陰膳」を準備して貰い、前回の粥のことを話したら、料理長はその時のことをはっきりと憶えており、同じ味付けで準備しますからおお任せくださいと嬉しそうに答えてくれた。
部屋での夕食が始まってしばらくした頃、菜穂が部屋にご挨拶に参上したが、テーブルの上席の部分にご遺影を置かれ、その前に料理長が準備した「陰膳」が供えられており、蓋のある物は蓋が外されていた。
「女将さん。有り難う。こんなことまでしてくださって主人が喜んでいると思います。ここから帰ってから何十回もお粥のことを『美味しかった』と言いましてね。娘も何度か聞いて一回食べたいと言いましてね」
前回に来られた時、ご主人は余命半年ぐらいという残酷な宣告を受けておられたそうで、ご夫婦で思い出作りにあちこちに出掛けられた中、この旅館の粥が最高で、終焉を迎えらた病室でも『もう1回食べたかった』と言われていたそうだ。
嘉穂は「ご一緒に献杯をいたしましょう」と勧め、過去にあるお寺様から教えていただいた薀蓄を次のように説明した。
「日本の文化は神仏と共食と言われています。神様の場合には『直会(なおらい)があり、乾杯が行われますが、仏様の場合は『御斎(おとき)』となり、そこでは献杯が行われるそうです。ご生前のご遺徳をお偲び申し上げ、献杯を捧げたいと存じます」
やがて出された粥もご遺影の前に供えられたが、食べられた娘さんが「本当に美味しい。これなのね」と感動され、奥様が涙を流され「あなた、よかったね」と語り掛けられた。
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