八重乃は辺鄙な山間部にある温泉地の旅館の女将だが、泉質が優れていることが知られており湯治を目的に来られるお客様で結構客室稼働率も高い。
アンパンマンに登場するキャラの中に「バタコさん」がいるが、八重乃の旅館にそのニックネームが命名されている仲居がいる。命名したのは夫である社長だが、彼女は性格的にいつも騒がしく動き回っており、いつの間にかスタッフ達からもそう呼ばれるようになってしまった。
「サービス業に従事する立場では、所作が美しくなくてはならない。お客様の目はいつもスタッフの動きを注視されており、目立つ動きをすると視線が集中する立場になることを理解しておきなさい」
「スタッフは絶対に走ってはいけません。走っても良いのは火災を発見した時と人が倒れたことを知った時だけです」
これは社長がいつもスタッフ教育の際に諄く指導して来た持論だが、バタコさんは歩き方もちょっと変わっており、仲居頭が厨房に隣接しているスタッフ休憩室で説教していた。
「お盆を落下させ大きな音がしたとか、ワゴンが何かにぶつかった音を耳にしてその方向を見ると、いつもあなたの姿をあるのですから困ったことです」
そう指導している仲居頭の手にはバタコさんの草履があり、「歩き方がおかしいから裏の減り方が私のとは違うでしょう」と並べて確認させていた。
八重乃旅館の仲居は全員和服になっており、草履を含めて制服として与えられている物だが、バタコさんの草履の減り方はどうも引き摺るよう歩いているみたいで、後方部分が著しく目立って磨り減っていた。
「あのう、私、どうも着物姿では歩き難いようで、裾が広がらないので絨毯や廊下の床を歩くのが苦手なのです。皆さんみたいに歩きたいとは思っているのですが」
そこから仲居頭は彼女に草履を履かせて廊下からロビーの方へ歩かせ、フロントにいた八重乃に「女将さんも指導してくださいよ」と情けなさそうな表情でそう言った。
それは「どうしようもありません」と訴えているみたいで、八重乃もさてどうするべきかと悩まされることになった。
そんな報告が社長に伝わると、八重乃が予想もしていなかった提案が出て来た。
「バタコさんだけど、着物を止めて作務衣に変更させたらどうだろう。お客様から見れば役職や仕事の担当が違うと誤解されるかもしれないが、それで所作が美しくなれば悪くない話だ。彼女の一生懸命な姿は貴重な存在だから大切にしたいし」
そんな夫の提案に納得の姿勢を見せた八重乃だが、次の日の午前中に彼女を伴って町にある呉服店に行き、スマートに見える「作務衣」を購入して彼女に着せることにした。
人と異なる服装をすると大きな変化が生じるのも事実で、八重乃と仲居頭が予想もしなかった所作で歩くようになったバタコさんの姿に驚くことになった。
「服装は人を変えるのだよ」と夫はしてやったりという表情でそう返した。
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