もう連綿とした歴史が200年続いている和風旅館だが、何度かリニューアルされて現在の建物が存続しているが、この近年でリニューアル工事を決断したのは法で定められた耐震対応からだった。
板の廊下は毎日徹底して磨き上げられているのでその艶に風格さえ漂う雰囲気が生まれているが、それこそがこの旅館の年輪として大切に守られて来たものだった。
そんな旅館に嫁いでから35年の月日が流れた。後継者と結婚して若女将と呼ばれる期間を経て先代女将から女将を命じられたのは4年前だったが、もうすぐ還暦を迎える年代になって体力低下を感じる法子だった。
法子の旅館には60代後半になっている2人の男性スタッフがいる。夫である社長はその2人を「人<財>」と称して「当館の宝だ」と皆に言っているが、法子も同じ思いで2人の存在に感謝しており、いつまでも元気で働いて欲しいと願っていた。
1人は「湯番」を担当している人物で、「湯守」とも呼ばれる「源泉」を管理してくれており、微妙に変化する源泉の温度調整などを最も快適な状態で大浴場に提供出来るように対応してくれている。
この温泉地には4種類の源泉があるが、その中の3種がこの旅館に引かれているのだが、泉質や湧出の温度はその日の天候によって微妙に変化するそうで、何度も当館を訪れてくれている温泉通達の間でも有名な存在だった。
もう一人は厨房の外に設けられている竈で「御飯」を炊くことを専門としている人物で、和食の世界でその名を知られる料理長さえ「あの人の御飯の炊き方は別格だ」と言われているのだからお客様の中にはその「御飯」を目的にやって来られる方も多く、何より嬉しいお言葉をいただくので社長も法子も喜んでいる。
季節によって「タケノコ御飯」や「松茸御飯」などの「炊き込み御飯」が出すホテルや旅館が多いが、「炊き立ての白い御飯に勝るものなし」という哲学と信念がこの名人と料理長の持論につながり、この旅館の伝統となっている。
当館に宿泊されてこの御飯に驚かれてあるテレビ番組で特集されたことがあったが、その反響は想像もしなかった凄まじさで、約1年間の予約が2日間でいっぱいになって語り草になっているが、テレビの影響の強さを改めて認識した出来事でもあった。
その時のインタビューアーの質問に名人が答えていた言葉が印象に残っている。「わしの人生は飯炊きで、誰にも負けないわしだけしか炊けない御飯を炊き、『美味しい』と言っていただけることが幸せで、それがわしの天職だと思っているが、耕作される農家の方々に喜んでいただければとも思っているよ」
そんな竈炊きの御飯のテクニックを学ぼうと多くの料理人達がやって来るが、ずっと注視していても肝心要な部分を究明することは出来ないらしく、いつも「見て盗め」と秘密を伝授してくれないと言われていた。
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