その日、女将の千恵子は学生時代の友人芳子と東京都内のホテルでランチタイムを過ごしていた。新幹線を利用すれば1時間半で東京駅に着くが、随分前から食事を一緒にと約束しており。その友人がお気に入りというホテルのレストランで至福のひとときを過ごしていた。
そんな時、千恵子がテーブルの上に置いていた携帯電話の着信を知らせる発光が目に留まり、「ちょっと失礼して電話をして来るから」と断って廊下へ出た。
着信は自分の旅館からで、掛けるとフロントの女性スタッフが出た。
「女将さん、どうしましょう。テレビの旅番組の飛び込み取材だそうで、大浴場や客室を撮影させて欲しいと来ているのです」
「女将が不在ですので対応出来ませんとお断りしてください」
「でも有名な女優さんが出ている番組で、ご本人が来られていますよ」
「アポのない取材はお断り申し上げておりますと伝えてください」
そんなやりとりで番組スタッフ達が引き揚げたが、看板女優にはどうも納得が行かなかったようで、「どこでも大歓迎されるのにどうして?」と意外な対応に疑問を抱いていた。
千恵子には拘りがあった。雑誌やテレビの取材には「書いてやる」「採り上げてやる」というケースが一部にあり、そんな対応をするのが辟易するのでこれまでも断って来た歴史があった。
電話が終わってテーブルに戻り、中座した詫びの言葉を伝えてから電話のやり取りについて話したが、「千恵子らしいわね」と笑われた。
千恵子は学生時代から権力姿勢に対する強い抵抗感を抱いていた事実があり、それは誰にも負けたくないという性格につながり、所属していたスポーツの世界で記録した成績は、今でも大学の輝く歴史として語り継がれている。
芳子は都内に在住しており、数店の美容室を経営する経営者でもあり、何かと相談をしていた関係もあった。
「千恵子、サービス業はね、時にはマスメディアを活用することも大切よ。取材拒否は自由だけれども、機会を逃す結果となることもあるので考えなければ」
そんなアドバイスは芳子らしいものだったが、千恵子は自分が旅館にいて対応していたらどうしただろうかと考えながら、電話に出たスタッフの心情を慮っていた。
この出来事は、やがて予想もしなかった展開を見せることになった。3ヵ月程経った頃、予約されていたお客様を玄関に迎えに出たら、それはその時の女優だったからで、彼女は芸名ではなく本名で予約していたので初めて知ることとなった。
最も驚いたのは3ヵ月前に対応したフロントの女性スタッフで、女優がお母さんを伴ってやって来た事実を前に固まってしまい、チェックインの対応を千恵子がフォローすることになった。
「女将さん、前回にこちらへ飛び込み取材した時、まさか断られるとは夢にも思いませんでした。何処でも大歓迎されていたのにどうしてと理解出来ず、一度宿泊してみたいと興味を覚えて母と一緒にやって来たのです」
千恵子は彼女やお母さんの好みの食材を伺い、繊細な味付けを料理長に頼み、2人の食事が全く異なる夕食にしたことを喜んで貰い、その後、その女優が別の番組で千恵子の旅館で感動した体験談を語ってくれ、その後、そこから広がったことから多くのお客様が来られるようになった。
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