凛とした和服姿で美人女将として知られる菜穂子だが、今日のその姿は痛々しくなっており、三角巾で右腕を首から吊り下げていたからだ。
手首の骨折という予想もしなかった事故が起きたのは昨日のことで、和風庭園のある1階につながる階段で、履いていた草履の鼻緒が切れたことから残り5段のところから落下したものだが、瞬時に身を守ろうと行動した手を着いた上に身が被さったのだから大変なことになった訳である。
古くから鼻緒が切れることは縁起が悪いと言われているが、自分自身でそれが痛い目として体験することになってしまった。
傾斜地に建てられている菜穂子の旅館は、玄関とロビーが2階に立地しており、裏側になる和風庭園が階下になっており、大浴場や露天風呂も同じフロアにあるところから、チェックインの時間を前に脱衣場の準備に問題がないかを確認に行くところだった。
手首は「くの字」になってしまい、運ばれて行った県立病院の外科医師の話によると「完全骨折」というそうで、2人の先生が菜穂子の腕を上下に引っ張り合って真直ぐにして、そこに添え木を用いて包帯でぐるぐる巻きにされるという荒っぽい治療を受けたが、レントゲン撮影の結果で後は「日にち薬」だそうで、全治3ヵ月という診断となっていた。
菜穂子の旅館には館内で発生した不慮の事故に関する保険を加入しており、支配人の話によるとスタッフも対象として含まれと確認したそうで、「痛い目をしましたけど保険対象ですから」と言って苦笑いをしていた。
和服姿で包帯も痛々しい限りだが、来館されてチェックイン時のお客様達から「どうされたのですか?」と質問され、恥ずかしい体験を何度も説明する自分に嫌になったが、利き腕である右手を使えないことは文字も書けず、食事でお箸を使うのも不自由なので困惑しているが、普段着から和服に着替えることも想像もしなかったことになり、仲居頭に頼んで救けて貰っている。
菜穂子が最も困っていることは文字が書けないということで、ご利用くださった方へ御礼のメッセージを託せないことで、チェックアウトのご精算時に領収証に添えるメッセージカードが掛けない現実だった。
誰かに任せたらと思うのだが、このカードの文字は菜穂子独特の花文字が入ることから、それこそ長年菜穂子が学んで来た集大成となっていたものであり、リピーターのお客様にはこのメッセージカードを大事に集めておられる方もあるのでスタッフのフォローも無力という背景があった。
支配人は菜穂子の命を受けてメッセージカードが掛けない事情を伝えるプリント作成を進め、終章部分に完治の際に改めて郵送するのでご理解を願う文章を添えていた。
後日にお客様に郵送物を送付するには問題を秘めていることも事実で、プライバシーに抵触してしまう問題もあり、チェックアウト時に言葉で郵送についての確認を行い、郵送先についても神経を遣って対応するようにしていた。
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