「それでは明日の午後1時にそちらへ」と昨日電話があり、次の日のその時間にその人物がやって来た。
彼は大手旅行会社の専務で、この業界に関係する人なら知らない人はいないというぐらいの有名人で、「ミスター・レジェンド」という呼称のある人物だった。
彼が出向していた開運会社が大型フェリーを運航していたが、高速の新造船を就航させた時に彼が運輸省に何度も出掛けて認可を受けることになった追加料金が話題になり、マスメディアでも大きく採り上げた出来事も知られている。
北海道までの所要時間を10時間近くも短縮することになったのだからびっくりだが、1万トン以上の大型フェリーが時速50キロ以上で航行するので話題となり、彼は「急行料金700円」という追加料金を運輸省に認可して貰ったのである。
その後に本社に戻るとアメリカ地域の総括という仕事を任され、見事にその責務を全うした歴史も知られていた。
そんな人物が女将の喜久子に頼みたいことがあるとわざわざやって来るとはただ事ではないが、この人物と喜久子のえにしについて触れておこう。
10年ほど前のことだったが、あるご夫婦が喜久子の旅館に宿泊され、帰宅されてから「今まで利用したホテルと旅館では最高だったという感想を話され、その息子さんが今回の人物で、両親の話に興味を抱き、アメリカに赴任される前に家族でご利用くださったことがあったのだが、旅行会社の方とは全く知らず、その後に「特別なお客様ですのでよろしく」と何度も紹介いただくことになって初めて知ることになった歴史がある。
「女将さん。今日はあなたを見込んでお願いに来ました。実は私がアメリカにいた時に仕事で特別に懇意にしていた人物ご夫妻が仕事を兼ねて来日されることになり、大都市圏のホテルは手配したのですが、ゆっくりと2日間を日本らしい旅館で過ごしたいと言われ、私に思い当たるのはここしかないということでお願いに来たのです」
登美子がそれを聞いてまず思ったのは言葉が通じないという問題だが、運転手として随行するスタッフが英語に堪能で、通訳も兼ねて宿泊してくれるということを知った。
登美子は彼がこの旅館を選んでくれたことが嬉しかった。何よりこの世界の「ミスター・レジェンド」である。そんな人物が登美子に特別なお客様を託するとは凄いことである。登美子の頭の中には「予算」というようなことは全く考えることもなく、「承りました」と快諾する言葉を出した。
やって来られるのは半月後である。日本の「おもてなし」からすると「今日は天ぷら」「明日はすき焼き」なんて発想があるが、登美子の考えているのは「お客様は何を望まれるか」ということの重視。それ以外はお客様のご自由に、ご要望があれば対応しますというアメリカナイズしたもので、それらを理解している登美子だからこそ選ばれたとも言えるだろう。
「ミスター・レジェンド」は安堵した表情で旅館を後に東京の本社へ帰られた。登美子はロビーのソファーに座ると天井を見ながらどのように対応するべきかを考えながら、ちょっとくらい英会話の勉強もしないといけないとも思っていた。
その後、何度か「ミスター・レジェンド」と電話でやりとりをした。寝具やバスルームのことなども質問したが、彼は「あなたにお任せします」ばかりで、悩みが増すばかりだったが、登美子には入手不可能な情報だけは彼が協力してくれることになった。
それは登美子の旅館に来るまでの行程で、宿泊されたホテルでどんな食事を注文されたかということで、大都市圏のホテルならレストランで食事をされるだろうという考え方もあったし、運転手と通訳を担当する人物が食事に立ち寄った場所の情報把握が可能ということで、ホテル側にすれば個人情報の問題に絡み開示はしない筈だが、「ミスター・レジェンド」ならそれが可能だろうという思いからのお願いだった。
本番の2日間を迎えて無事にお見送りとなったが、ミスター・レジェンドから「最高だった」という感想があったと電話があり、「有り難う」とお礼の言葉を耳にした時、これまでの仕事で最も疲れた思いを体感した思い出となっている。
そうそう、詳しい対応の内容については触れないが、登美子が準備をしていた幾つかを紹介すると、浴衣の他に作務衣を購入して部屋に準備しておいたら、2日目にご夫婦で着用されお気に入りになったこともあったし、交流のある松阪の割烹に依頼して特別な牛肉と共に網焼きに使われる「たまり醤油」のタレを手配して貰い、それをお食事処で焼いて召し上がっていただくために備長炭を用意。天ぷらは串のタイプにしてご自身でお好きな食材をご自由に揚げていただく対応にしていた。
それらは、ホテル側から入手した情報を知らせて貰っていたからこそ可能となった「おもてなし」で、それこそ「表なし」で「裏」の話である。
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