随分昔のことだが、南米旅行をした際のこと。羽田からアンカレッジ、ロサンゼルス、ペルーのリマ、リオデジャネイロを経由してサンパウロへ到着したが、トランジットを含めて所要時間は35時間。機内ではスリッパで過ごしていたので、到着した時は靴を履くのが苦痛な状態になっていた。
サンパウロの空港内で新聞を読んでいる人が目に入り、大きな写真が掲載されている人物にびっくりした。エルビス・プレスリーが死去したニュースを伝える記事だった。
彼のレパートリーの中にある「ラブミー・テンダー」の弾き語りを私自身がやっていたこともあり、まだ若かった彼の死が信じられなかったことを憶えている。
到着してからサンパウロ郊外にある家で3日間お世話になったが、地元のラジオ放送局のオーナーの家で立派な屋敷だった。
この家に卓球台があり、当家の小学生の男の子と中学生の女の子が卓球クラブに所属しているそうでかなりレベルは高かったが、おじさんとやってみようかというと馬鹿にするような表情でラケットを貸してくれた。
打ち出してラリーを始めると驚いたようで真剣になり、不思議そうな表情を見せる。高いレベルであっても私のレベルからすると格段の差がある。それこそ赤子の手を捻るということになる現実だった。
しばらくすると女の子が何処かへ出掛けてしまい、男の子と3ゲームマッチの試合をすることになった。もちろん本格的なサーブはしなかったが、その子は真剣そのもの。嬉しそうな一面も感じられた。
しばらくすると女の子が数人の友達を伴って戻って来た。みんな卓球クラブの仲間だそうで、いつの間にか私が日本の選手ということになっていた。
全員の前で指導したのがサーブだったが、彼らには衝撃だったようで、初めてみることばかりなので、それから何時間も私を解放してくれず、次の日、その次の日とどんどん参加者が増え、30人ぐらい集まってからお世話になっていた部屋まで呼びに来た。
それはまるで卓球教室になってしまったが、彼らにはそれまで見たことがないことばかりで、少しマスターするだけで一気に技術がアップすることになったので喜んでいた。
最後の日、次の行先へ出発することになったが、全員が送りに来てくれ、男の子と女の子が涙を流していたのが印象に残っている。
考えてみれば地球の裏側にある国で、時差が12時間。距離が片道2万キロ以上もあるのだから再会するパーセンテージは限りなく低いだろう。そう思うと私の方も物悲しくなって涙が出て来たことを憶えている。
次にお世話になった家は銀行家だったが、会った時は幼稚園に通っていた女の子が成長し、大学生となってから手紙が届くようになり、日本語の勉強を始めたそうで、ひらかなばかりの手紙でやりとりをしていた。
今日の写真は利用したヴァリグ・ブラジル航空の「707型機」を。
サンパウロの空港内で新聞を読んでいる人が目に入り、大きな写真が掲載されている人物にびっくりした。エルビス・プレスリーが死去したニュースを伝える記事だった。
彼のレパートリーの中にある「ラブミー・テンダー」の弾き語りを私自身がやっていたこともあり、まだ若かった彼の死が信じられなかったことを憶えている。
到着してからサンパウロ郊外にある家で3日間お世話になったが、地元のラジオ放送局のオーナーの家で立派な屋敷だった。
この家に卓球台があり、当家の小学生の男の子と中学生の女の子が卓球クラブに所属しているそうでかなりレベルは高かったが、おじさんとやってみようかというと馬鹿にするような表情でラケットを貸してくれた。
打ち出してラリーを始めると驚いたようで真剣になり、不思議そうな表情を見せる。高いレベルであっても私のレベルからすると格段の差がある。それこそ赤子の手を捻るということになる現実だった。
しばらくすると女の子が何処かへ出掛けてしまい、男の子と3ゲームマッチの試合をすることになった。もちろん本格的なサーブはしなかったが、その子は真剣そのもの。嬉しそうな一面も感じられた。
しばらくすると女の子が数人の友達を伴って戻って来た。みんな卓球クラブの仲間だそうで、いつの間にか私が日本の選手ということになっていた。
全員の前で指導したのがサーブだったが、彼らには衝撃だったようで、初めてみることばかりなので、それから何時間も私を解放してくれず、次の日、その次の日とどんどん参加者が増え、30人ぐらい集まってからお世話になっていた部屋まで呼びに来た。
それはまるで卓球教室になってしまったが、彼らにはそれまで見たことがないことばかりで、少しマスターするだけで一気に技術がアップすることになったので喜んでいた。
最後の日、次の行先へ出発することになったが、全員が送りに来てくれ、男の子と女の子が涙を流していたのが印象に残っている。
考えてみれば地球の裏側にある国で、時差が12時間。距離が片道2万キロ以上もあるのだから再会するパーセンテージは限りなく低いだろう。そう思うと私の方も物悲しくなって涙が出て来たことを憶えている。
次にお世話になった家は銀行家だったが、会った時は幼稚園に通っていた女の子が成長し、大学生となってから手紙が届くようになり、日本語の勉強を始めたそうで、ひらかなばかりの手紙でやりとりをしていた。
今日の写真は利用したヴァリグ・ブラジル航空の「707型機」を。
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