絹江が女将を務める旅館は人気の高い観光地にあった。海も山もあってJRと私鉄が乗り入れている最寄り駅なので年中多くの観光客が訪れ、特急電車が1時間毎に到着するが、午後2時過ぎから駅前広場は送迎バスやワゴンで埋め尽くされる状態になっている。
今日は絹江の旅館の月に一回の全体会議。昼食を少し早目に済ませて12時半から大広間に集まって行われるが、送迎を担当している男性スタッフが次のような発言をした。
「当館と競合している『花の雅館』ですが、1週間ほど前から送迎車に真っ白なリムジンを導入したようで話題になっています。それをご覧になったお客様達が羨ましそうにされているように見えるのは私の僻みからでしょうか。当館も負けないように考えなければならないように思います。
絹江の夫が社長だが、何かにつけて「花の雅館」には対抗意識が強く、それを耳にして興奮したみたいで「向こうがキャデラックなら当館はリンカーンで対抗しよう」なんて言い出すのだから横で絹江が苦笑していた。
若い男性スタッフ達は外車を運転してみたい気持ちもあるし、駅でお迎えしてお客様にご乗車いただく時の光景を思い浮かべると賛同となるが、そんな空気を察した絹江は次のように割って入った。
「ハワイの結婚式じゃないのだから真っ白のリムジンなんておかしいし、和風旅館にはイメージが合わないと思います。もしも、もしもの話ですが、当館が送迎車を購入するなら「品」を重視したいと考えますから、皇室のニュースで見られる国産の高級車がよいと思います」
絹江の想像する光景は当館の玄関に送迎でお客様が到着される場面だった。白いリムジンで到着するのと国産の高級車で到着するのとどちらが「品」があるかと思うからで、和風旅館には黒塗りの国産高級車が最適と発言したのである。
この問題を提議した送迎担当の男性スタッフは、まさかこんな話に進展するとは予想もしなかったが、女将の発言に間髪を入れずに「それはトヨタのセンチュリーです。最高の車です」と大きな声で賛同するように発言した。
それを聞いた社長がまた興奮気味になって発言をする。「それいいわ。いただきだ。上品ということは重要だ。確かに真っ白なリムジンは品がない。送迎されるお客様には話の種になるかもしれないが、きっと気恥ずかしい感じも抱かれる筈だ。センチュリーなら陛下や総理の専用車になっているから恥ずかしくない。何より気品があるではないか」
この話は意外な方向へ進んでしまい、社長はすっかりその気になってしまったので絹江がストップすることにしたが、現実的な「価格はどのぐらい?」と割って入り、男性スタッフが「新車で購入するなら1200万円はするでしょう」と返すと、一瞬にしてその話題から離れることになり、社長がバツの悪そうな表情を見せていた。
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