女将の諒子が楽しみにしているのは、夕食時に各部屋に参上してお客様にご挨拶すること。館内全部で14室なのでゆっくりとお話することも可能で、そこで耳にするお客様の言葉が大きなヒントになることもあり、2年前の先代女将が引退して女将を継いでからずっと続けている。
諒子の旅館は俗に言われる高級旅館で、1泊2食付きで一人57000円。ここに税金とサービス料が加算されるので6万円を超し、夫婦で利用すれば13万円以上となるのでどちらかと言えば旅慣れた高齢者のご夫婦が多い。
HPに「静寂なひとときをお過ごしください」というキャッチコピーがあるように、中学生以下の子供さんの利用はご遠慮くださいとなっており、各部屋にそれぞれデザインの異なる露天風呂が設置され、24時間潤沢な温泉が溢れているという極めて贅沢な宿泊施設であった。
各部屋のデザインを変えたのはリピーターのお客様を期待したからで、実際にそれを目的に再来くださったお客様もおられたが、ネットからのお部屋の指定も可能となっているし、チェックインの時に写真ファイルをご覧いただき確認してからお部屋に案内することになっていた。
「前回に利用し部屋の露店風呂が気に入ってね。またやって来たよ」という有り難いお客様にも全てのファイルをご覧いただくと「全ての部屋が異なっているのか」と初めて知っていただくこともあり「それなら前とは別の部屋を」というケースも起きている。
その日、満室になった各部屋のご挨拶を順に始めたが、上品そうな高齢夫婦のご主人から言われた言葉は諒子が全く考えていなかったことで、サービスについて再考するきっかけとなる指摘でもあった。
「当旅館の女将でございます。本日はようこそご来館くださいました。お料理は如何でございますか?何かお気に入りのものがございましたら追加も可能ですのでご遠慮なく」
そんなマニュアル的な挨拶をした際、男性からいきなり質問をされた「女将さん、この旅館のご自慢は何ですか?」
「各部屋の異なった露天風呂に24時間お湯が溢れることでしょうか」と返したら「温泉旅館が風呂や湯を自慢しているようでは一流ではない。『料理長や仲居などのスタッフです』と人のことを自慢出来れば最高だよ」
諒子は何も返す言葉なかった。ただ「異なる露天風呂ならリピーターが期待できますから」と言うべきではなかった言葉を愛想遣いみたいに発してしまい後悔していた。
「女将さん、物理的なものにリピーターを求めるのはまだまだです。この温泉地へ来られたお客さんは別の旅館はどんなだろうな?と思って帰られることも事実だし、それを超越するには人に尽きるということになるのです」
諒子は<この方、普通じゃない!>と思いながら、何者かと興味を覚え、反論したい心情を抑えて聞く側の立場で恐縮する姿勢で座っていた。
「入社して来たら『人材』だが、教育して育つと『人<財>』になる。『材料』から『財産』に成長する訳だが、女将さん『財産』と呼べるスタッフはどのぐらいおられるかな?」
もう答えられない状態になっている諒子。ここから逃げ出したくなる思いを抱きながらこの人の話をもっと聞きたいという思いに駆られていた。
「スタッフそれぞれが自分の仕事に誇りを抱き、生き甲斐、遣り甲斐を感じることが出来た時、皆で提供するサービスが一流旅館も基本条件と言えるだろう」
「恐れ入ります。その通りですね。そんな旅館になるよう取り組みます」と返した諒子だったが、何か亡くなった先代から説教されているような感じがしてならなかった。
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