サラリーマンをしていた夫と知り合ったのは智子が大学を卒業してからすぐだった。友人の結婚披露宴に出席した際に同じテーブルだったことが縁で、それから付き合いが始まって2年経過して結婚した。
3歳年上の夫だが、実家が観光旅館ということは聞いていたが、本人は後継したくないと常々から言っており、まさか自分が女将になるとは想像もしていなかった。
夫はかなり仕事の存在感が高かったようで、30歳の時に課長に抜擢され、「将来は役員になれるかも」と自信有り気に話していたのだが、旅館をやっていた彼の両親が乗った車が交通事故に巻き込まれ、夫婦揃って亡くなるという悲劇が起き、葬儀が終わってから行われた旅館の会議でスタッフ一同から懇願され、辞職することを余儀なくされて現在に至って10年の月日が流れた。
彼はサラリーマン時代にも発揮していた持前の人当たりのよい好感度から、取引銀行からの信望も厚く、仕入先からの評判もびっくりするほど高く、それらはお客様に対するサービス対応の姿勢にもつながり、2人がこの旅館に入ってから随分と客室稼働率が高くなり、スタッフへの給料をアップさせることが出来たので順風満帆という状況だった。
残念だが2人には子供の存在はなかった。夫は一人っ子だったので子供を欲しがったが、これだけは現在のところ恵まれず、当分は仕事が趣味というように専念していたが、智子の兄の娘である寧子がよくやって来ていたので可愛がっており、春休み、夏休みには何時も電話して誘っていた。
そんな寧子も大学の2回生になっており、近々に3回生になろうとしていた。
寧子のことを「ネッシー」という愛称で読んでいた夫だが、春休みになる前に彼女から夫に電話があり、何か頼み事をされたみたいなやりとりが気になっていた。
そのことについて打ち明けてくれたのは寧子がやって来る前日のことで、「分かったと対応することにしたので頼むよ」と言われたが、その内容を耳にして「そんなことは簡単に引き受けられない」と返した。
「頼むよ。君に拒絶されたら私の立つ瀬がない。子供の存在もないのだからこの道もありかもしれないよ」
それは、寧子がやって来る目的は「女将の助手」をさせて欲しいというもので、その背景には卒業論文で「日本のホスピタリティ文化と女将の存在」というテーマで取り組むらしく、まずは体験からとの行動だった。
寧子は可愛い女性に育ち、サービス業向きであるとは思えたが、まさか女将の仕事を卒論のテーマにするとはびっくりで、どうするべきかと迷って眠れない夜を過ごした。
次の朝、お客様のチェックアウトを済ませると、ロビーのソファーで夫と話し、寧子のことについて受ける覚悟を伝えたが、自分の身内であるところからひとつだけ条件を提示すると、夫は嬉しそうな表情で次のように答えた。
「女将の勉強なのだから私は見守るだけだよ。全て君に任せる。厳しい教育も重要だろう。思うようにしてくれていいよ。一切口出しはしないから」
智子の提案したことは女将の教育は厳しくやりたいということ。縁故の関係だから優遇することもせず、寧子に与える部屋は俗に言われる布団部屋で、寧子が何日耐えることが出来るかと興味も抱いていた。
その日の昼過ぎ。そんなことになっているとは全く知らない寧子がやって来た。果たして彼女の春休みの体験はどんなことになるのだろうか。
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