亜矢子が所属している女将会は、月1回の会合と年1回の研修旅行を行っていた。今年の研修旅行は九州で人気のある温泉地で、若い女性の話題になっているところから3ヵ月前の会合で行先が決まったものだった。
幹事を担当している人物の飛行機が苦手ということから新幹線を利用したが、初めて乗った「みずほ」の旅は快適なものだった。
女将会という団体なので宿泊先の旅館も様々に配慮してくれ、特別料金なので有り難かったが、研修という目的を伝えてあったところからバリアフリーの専門家に依頼してくれて1時間の講義を受講する企画もあり、その内容に学ぶことが多く、有意義なひとときとなった。
次の日、朝食が済んで部屋に戻った時、携帯電話に着信があり、発信が亜矢子の旅館であることを確認してからボタンを押した。
研修旅行に出掛けている先に電話を掛けて来るとは何かあった筈。そうでなければ掛けて来ることはないと思いながら会話を始めたが、やはり嫌な用件だった。
「どうします?」「今日は帰らせなさい。絶対にお客様の目には見せないように」「今夜お帰りになるのですね?」「そう、明日に出勤するように。それから裏口から入るように厳しく伝えておきなさい」
そんなやりとりだが、相手は支配人で、事務所の男性スタッフが茶髪になって出勤して来たという報告だった。
支配人は女将が金髪と茶髪は旅館のスタッフではご法度という哲学を知っており、困った問題が発生したと悩んでいたが、このスタッフを説得することは自分には無理と判断し、女将に連絡して来たものだが、明日に突然その容姿を目にして驚くより先に知らせておくべきという思いもあった。
次の朝、事務所に隣接する部屋の中で茶髪の男性スタッフと対峙した。
「費用は私のポケットマネーで出すから染めて来なさい」「ヘアースタイルなんて自由でしょう」「サービス業に金髪と茶髪はご法度です。そんな基本的なことを理解出来ない人は当館で勤務することは出来ません」「権利も認められる筈です」「弁護士にでも依頼して訴訟したらどうでしょう。それで裁判の結果で500万円支払えと言われたら支払います。ご自由に権利を主張されたらよいでしょう」
同室していた支配人は内心「大変なことになって来た」と思っていたが、同時に<女将らしいな>とも理解していた。
「接客するサービス業では金髪と茶髪は駄目です。これは接客のプロと自負している私の信念と哲学であり、絶対に不変ですからどうにもなりません。社員契約を解除し、規定の金額を出しますから今日を以て退職してください」
それだけ言うと女将は「後はあなたが対応して」と支配人に任せて部屋を出て行ってしまい、彼を宥め慰めるような言葉を並べてしばらく対応することにした。
「何で茶髪にする気になったの? 何か大きな出来事があったとか?」と言うと、彼は急に涙を流し始め、失恋が原因であることを打ち明けてくれた。
「そんなことで一々髪を染めていたら髪にも悪いし、女の子達にも敬遠されるかもしれないよ。これは私の考え方だが。茶髪や金髪にするだけで付き合う相手も変わる可能性もあるし、将来の結婚相手も変わるかもしれないじゃないか」
そんな説教染みた雰囲気になった室内だが、茶髪のスタッフは何か吹っ切れたようで、「支配人、女将さんに謝っておいてください。これから染め直して来ます。頑張ってここで勤務させてください」となり、思わぬ展開となって自分も結構出来るではないかと思った支配人だった。
しかし、この支配人の行動は女将が描いたシナリオ通りだった。前日に戻った際、「何か事情があると思うの。それをあなたが確認して。私は突き放す発言で対応するから」というようなやりとりが交わされており、女将が推察したようにやはり大きな環境変化が起きていたのである。
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