大都市から在来線の特急列車で山間部を2時間ほど行くと温泉観光地があり、十数軒の旅館の中の1軒で浜子が女将をしていた。
硫黄泉で数百年の歴史があり、昔から効能が高いと評判なので高齢者に人気があった。
ある日、浜子は特急列車で大都会へ向かい、半年前から参加しているセミナーに出席し、晩めの昼食を済ませて帰路の特急列車に乗車した。
ちょっと贅沢だがグリーン車を利用している。それは若い頃に交通事故の被害に遭い、頸部に痛みを感じる後遺症が出るからで、列車移動の時はいつも車両の最後部の席を指定して貰い、後席にシートを気兼ねなくシートを倒して頸部の負担を和らげながら座っていた。
浜子の席は進行方向に向かって左側だが、通路を挟んだ右側の一列前の席に夫婦らしい二人連れが乗っており、鞄の中からJRの旅行情報誌を取り出して読んでいる光景が目に留まった。
しばらくすると通路側に座っている男性が旅館のパンフレットのようなものを広げた。興味を覚えた浜子はハンドバッグの中から眼鏡を取り出してして確認してびっくり。そのパンフレットは旅行会社などに配布している浜子の旅館のものだったからだ。
それから2人の会話が気になり始めた。「この地域では桜肉で知られているし、時期からすると牡丹鍋が出るかもしれないな」「そんな物が出たらあなたは最悪でしょう。私は何でも歓迎ですけど、あなたは駄目な物の方が多いのだから大変。チェックインの時に確認した方がよいでしょうね」という会話が聞こえて来た。
果たして自分の旅館に来られるお客様なのだろうか。たまたま当館のパンフレットを入手されているだけかもしれないとも考えられるし、それは浜子が降車する駅で判明することになる筈だ。
この晩めの時間帯に降車されるお客様は少ない。もう1時間早い列車が到着する時は利用される方々も多く、駅前には各旅館の名称の入った送迎車が並んでいるが、この時間帯は3台程度しか残っておらず、このお2人が浜子の旅館に行かれるとすると、浜子が迎えに来て欲しいと頼んでおいた送迎車に同乗することになるのでどうするべきかなんて考えていた。
やがて浜子が降車する駅に着いた。やはり二人連れも一緒だった。改札口を過ぎると駅前広場に出るが、二人連れは数台停車している送迎車の方をチラッと見るとそのままタクシー乗り場に並ばれていた。
送迎車の中に浜子の旅館のワゴンもあった。迎えに来てくれた副支配人が「お帰りなさい」と後席の扉を開けてくれた。
浜子を乗せたワゴンが出発。駅から15分も走れば旅館に着くが、副支配人と列車の中での目撃談を話していたら、「もう一組のお客様がまだご到着でないのです」と教えてくれたが、駅前広場の2人の行動からすると浜子の旅館のお客様だとは考えられなかった。
ワゴンは旅館の玄関を通り過ぎて駐車場の方へ回った。浜子と副支配人が車を駐車してから玄関まで来た時、1台のタクシーが到着。降りて来られたお2人を見てびっくり。あのお二人連れだったからである。
駅前広場で送迎車をご覧になっていたことは確か。なのにどうしてタクシーを利用されたのか。浜子は疑問を抱いたが、それを確かめたい思いも生まれていたと同時に、列車内で「桜肉」と「牡丹鍋」のことを気にされていたことを思い出し、チェックインに付き添ってフォローすることにした。
お2人の料理は懐石で何とかお召し上がりいただける物もあって安堵したが、ロビーの席でウェルカムドリンクである抹茶を出し、その時に「どうしてタクシーを」と確認したら次のように言われた。
「最寄駅からタクシーをお利用するのも旅の楽しみの一つです。地元の様々な情報も入りますし、宿泊する旅館の生の情報も聞けるからですよ」
その言葉を耳にした瞬間、タクシーの運転手さんが浜子の旅館のことをどのように伝えたのかが心配になりゾッとした。
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