1ヵ月程前に旅館組合の会合で決定された各宿泊施設で実施される研修会だが、各館が順に行われて来ており、美弥子が女将をしている旅館でも今日の午後0時半から実施されることになっていた。
研修の講師として来館されるのは地元の病院の医師と消防署の救急隊員の2人。心停止された方の心臓に電気の刺激によって蘇生するという「AED」に関する研修だった。
そんなところからスタッフ全員は早目の昼食を済ませ、研修会場となっているロビーに集合することになっていた。
会議室ではなくロビーにしたのはフロントを無人状態にしておくことも出来ないし、事務所スタッフにも体験させておきたいことで、扉を開けて置けば電話の音が聞こえるロビーにしたものであった。
美弥子の旅館のスタッフは全員で43名いるが、この日は全員出勤ということになっており、風邪で高熱を出して寝込んでいるという浴室担当の男性スタッフ以外は全員揃っていた。
まず初めに社長である夫の挨拶から始まった。「まだ私も自信がありませんが、『私は確実に操作出来る』という人は何人いますか?」
それで挙手したのは3人だけ。続いて「何とか操作出来るだろうと思っている人は?」と問い掛けたら7人が手を挙げた。つまり大半が理解していないことが判明したが、美弥子は夫の「まだ私も自信がありませんが」の発言にトップである責任者がどうしてと抵抗感を覚えた。
研修会が始まり、心疾患に関する兆候や症状に対する基本的な知識について15分程医師から説明があり、続いて実際に「AED」の操作方法について研修されることになった。
隊員が「誰か患者さんの役をしていただきたいのですが」と言って用意されていたシーツを床の絨毯の上に広げたのだが、事務所スタッフの若い男性スタッフが「胸を広げるのだから若い女性がよい」と冗談を言ったことで場がどよめいた。
美弥子は腹立たしく思うと同時に隊員の方の存在があるので恥ずかしかった。そこで、その発言をした本人に「あなたが患者さんの役をしなさい」と強い口調で命じたので、場が一瞬にして緊張する雰囲気になった。
約40分の研修が終わって医師と隊員の2人がお帰りになるのを玄関で見送った美弥子は、ロビーに戻ると同時に説教を始めた。
「何と恥ずかしい思いをさせてくれたの。この研修は私達旅館サービスにあって重要なことで、もしも体調を崩されてその最後をこの旅館で迎えられることになったらどうするの。皆さんの大切なご家族がそんなことになったらどうされるのでしょうか。救急車を要請しても10分は要するでしょうし、それから病院へ搬送と考えると先生が指摘されていたように初動の対処が重要なのです。それを真剣に学ぶ場で不謹慎な冗談が出るなんて許せることではありません。3ヵ月ぐらい減給したい思いです。本人は猛省しなければなりませんし、そんな冗談が出る環境になっていた皆さんの姿勢にも問題があったと指摘します」
美弥子の言葉は続いて夫にも及び、「トップなのに自信がない」という状態でどうするのですかと苦言を呈した。
そんな指摘から責任を感じたのか、夫はもう一度研修を確認し合うようにスタッフ達に呼び掛けていた。
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