女将の百合香は戦後生まれで、所謂「団塊世代」であった。歴史ある旅館も長男が後継しており、夫である前社長は会長に就任。誕生している2人の孫の成長を楽しみにしながら過ごすのが最近の生活である。
息子が結婚したのは10年前だが、古くから交流のあった旅行会社の部長の紹介から他府県の旅館の娘さんと見合いが進められ、それから半年後に結婚したのだから縁結びのきっかけを与えてくれた人物に感謝をしている。
その娘さんは両親から特別な教育をされていたみたいで、嫁いで来てしばらくしてから若女将として第一線に。お客様帯やスタッフからの受けや評判がよく御K枚夫婦は喜んでいる。
最近は部屋に参上してご挨拶をすることも若女将に任せているが。その日のお客様名簿の確認だけは欠かしたことがなく、その日も夫と2人で夕食を済ませてからフロントで確認をしていた。
名簿の中に大阪から来られているお客様がおられる。宿泊者カードに記載された住所を目にして驚くことになった。なぜなら百合香は大阪の出身で、中学生まで過ごした辺りと想像出来る住所だったからだった。
しばらくすると部屋回りをしていた若女将が戻って来た。そこでそのお客さんのことを聞いたら、「ご高齢のご夫婦ですよ」と言われたことから興味を抱き、事情を伝えてからその部屋に参上することにした。
「失礼します。当館の女将でございます」と襖を開けて入室し、しきたり通りの挨拶を済ませてから大阪の話題を出した。
「お客様のご住所を目にしまして懐かしくなりまして」と昔話をするとご夫婦が驚かれ、「えっ、女将さんは中学生までおられたのですか!」と返され、互いの居住場所を話し合って行くとすぐ近くだったことが判明。そこは国道25号線の交差点で、昔のバス停は「林寺新家町」という話題に進んだ。
「交差点を北に入ったら昔は大三というパチンコ店があってね」「そうでしたね。隣接するペットショップみたいな店との間に狭い路地があり、パチンコ店の裏側に出ることが出来ましたね」「そうそう。いやあ、こんなところで懐かしい昔話が出来るとはびっくりだなあ」「あのパチンコ店の裏側に屋台のたこ焼き店がありましてね、よく買いに行ったことを憶えています」
会話がそこまで来た時、「ちょっと!それってまさか?」と奥様が割って入るように発言され、そのお顔の表情は驚きそのものだった。
「あのね、主人からそのたこ焼きの店のことを何十回も聞かされていましてね。ずっと『あのたこ焼きの味だけは忘れられない。何処にもあの味はない世界だ』と言っていますよ」
「女将さん、あのたこ焼きの味を憶えておられるのですか。もう70歳を超えましたが、あのたこ焼きの話題を共有することは一回もなく、この温泉にやって来てその話題が実を結ぶとは信じられない話だ」
「お醤油味でした。10円で8個。多くの人達に食べていただきたいとおばさんが20円以上は販売されなかったことが印象に残っています」
女将がそう言った時、ふと見るとご主人が机の上に置かれていたおしぼりを目にされて俯かれている、一気に昔の時代に戻ることが出来て感極まり涙を流しておられたのだが、奥様の方も「よかったねえ」と涙を浮かべておられるのを見て、百合香も涙ぐんでしまった。
「お客様、実は私はあの味が忘れられないところから、この旅館に嫁いでしばらくしてからたこ焼きに挑戦した歴史がありましてね、今でも時折に自分で焼いて懐かしんでいるのです。あの味には至りませんが。郷愁の世界だけは感じられますので、30分程お待ちいただければ焼いて参りますから」
そんなやりとりがあって百合香は厨房へ行き、事情を知った料理長が協力して具材を準備してくれた。
そのたこ焼きというのは、ソースを一切使わない醤油味オンリーで、回転させながら刷毛で醤油を塗りながら少し焦げ目を付けて焼くもので、それこそ知る人しか理解出来ないものだった。
30分後、器に盛られた15個のたこ焼きが部屋に運ばれた。ご主人が嬉しそうな表情で奥様に「お前もいただいてみろ。分かるから」と勧めた。
やがて添えられていた爪楊枝で1個を召し上がられたご主人は、「女将さん、感激だわ。この味この味。これをこんなところで生きている内に食べられるなんて」
「本当にお醤油味で美味しいわ。今まで食べたどのたこ焼きより美味しいわ」と言われた奥様に、「そうだろう」と優しく語り掛けたご主人。そんな想像もしなかった至福の時間が流れていた。
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