全てのお客様のチェックインも済み、夕刻を過ぎて夜の帳が下りる頃、各部屋で夕食が始まっているが、フロントのカウンターで地域の回覧板を読んでいた女将の継恵の所へ一人の仲居が足早にやって来た。
彼女は部屋係で食事の世話を担当している筈だが、そんな中で「女将さん、大変です」と伝えに来たのだから継恵は何か食事の内容で問題が発生したのではと鼓動の高まりが自分でもびっくりするぐらい変化を感じた。
「女将さん、私の担当のお客様なのですが、大変なことが発覚いたしまして」
事情を確認すると、食事が始まってからご夫婦の会話で「忘れて来た」という問題が表面化。ご主人が服用しなければならない処方薬を持参されていなかったと言うのである。
奥様は骨粗鬆症と痛めておられる方の鎮痛剤を服用されていて忘れずに持参されていたが、ご主人の血圧降下剤、逆流性食道炎、食後の胃腸薬、就寝前の精神安定剤と睡眠導入剤すべてをご自宅の置いたまま来られたことが判明した。
奥様は旅行先で何かあったら大変とご主人の「お薬手帳」と「健康保険証」を持参されていたが、肝心の薬を忘れられたことからどうしようとなった訳である。
女将は事務所にいた社長である夫に相談したが、社長は「命に関わる大変な問題だ」と返し、お世話になっている医院の先生に電話して相談してみるから「お薬手帳を持って来なさい」と命じた。
それが届くとすぐに先生に電話を掛け、事情を説明してしばらくすると「お薬手帳」のページを開けて表記されている情報を伝えていた。
そして、やがて電話を切ると「先生が処方してくださるそうだ。全ての薬が医院にあるそうで、『お薬手帳』と健康保険証を持って午後8味を過ぎてもよいから来なさい」となってよかったよ。
医院の診察時間は午後8時までだが、夕食時のことを考慮くださったみたいで、継恵は心の中で先生に手を合わせていた。
継恵も夫も先生の患者である。先代の先生の時代からつながりがあり、スタッフの健康診断でもお世話になっているところから有り難い存在でもあった。
病院から比べると小規模だが、レントゲン設備や超音波の設備もあるので地元では重宝な存在となっており、先生は地元の名士として知られていた。
8時前、ご夫婦が服を着替えてロビーに来られ、夫の運転する車で医院へ向かったが、車で5分も掛からない距離だし、もう患者さん達の診察も少なくなっていると考えられ、今回の先生の対応に改めて感謝する継恵だった。
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