午後5時過ぎに「今日、一部屋空いていませんか。6人なのですけど」という電話があり、幸いなことにキャンセルで空室が一部屋だけあり、承ることになった。
そのお客様達が到着されたのは電話があってから30分後くらいだったが、全員が大学のゴルフ部に所属しているそうで、近くにあるゴルフ場で1週間の合宿練習をしていたそうで、ゴルフ場内に併設されている宿泊施設を利用されていたらしく、終わってから東京へ戻る前に打ち上げで1泊しようと急に決まってやって来たものだった。
夕食タイムが始まった頃、女将の真弓がフロントへ行くと、「女将さん」と副支配人から声を掛けられ、学生達が分乗して来た2台の車について教えてくれた。
「とんでもない高級車ですよ。ポルシェとベントレーですよ。あんな車に学生の身分では絶対に無理で、親の車か親に無理を言って買って貰ったしか考えられず、余程裕福な環境なのでしょうね」
そんな情報を耳にして興味を抱いた真弓は、部屋に参上した時に車の話題も出してみようと考えた。
彼らの部屋は4階の一番奥にあり、隣室の挨拶を終えて「失礼します」と襖のところまで行ったら、中から「一気、一気、一気」という掛け声が聞こえて来て嫌な思いをしながら襖を開けた。
思いは当たって欲しくなかったが、見事に的中してしまい、一人の学生がグラスにいっぱい入った赤ワインを飲もうとしているところだった。
「待ちなさい。止めてください。そんな行為を皆さんでされるならこの旅館から今すぐお帰りください」
ちょっと考えられない厳しい言葉である。すぐに怒りの反応を示したのはリーダー格らしい学生で、「客に向かってなんて言葉を言うのだ。女将の分際で」とかなり大声で叫ぶように言ったので、廊下のワゴンにビールを取りに行っていた仲居が驚いて飛び込んで来た。
「私は女将ではなく、皆さんのお母さんの立場から言っているのです。人生は反省で済む範囲内であるべきで、絶対に後悔することはするべきではありません。もしも一気飲みで急性アルコール中毒になって亡くなったらどうするのですか。この方のご家族がどんな思いをなさるのでしょうか。ここまで育んだ息子がこんな亡くなり方をするなんて。『申し訳ございません。二度とこのような』と学長と部長が謝罪しているニュースを観られたこともないのでしょうか。そんな出来事で廃部にでもなったら皆さんが所属されるクラブの先輩方にどのように謝罪されるのでしょうか。歴史も伝統もそれこそ一気に消滅してしまいます」
真弓のその言葉に反論する学生は誰もおらず、「女将の分際で」と激高したリーダー格の人物も何かバツが悪そうにしていた。
「女将ではなくお母さんという立場をご理解いただけたら幸いですが、世の中には被害者があれば加害者もありますが、被害者になるな、加害者になるなと当館の先代女将から何十回と聞かされたこともあるのです」
「申し訳ございませんでした」「愚かな行為でした」「厳しい叱責の言葉で目が覚めたようです」
そんな言葉で室内が収まり、改めてリーダー格の人物が「馬鹿なことを止めて乾杯から食事を始めよう」と発言し、リーダー格の隣に座っていた人物が「本当に母親から説教を受けたみたいに思った」と言ったので。皆さんも「そうだな」という雰囲気で頷いていた。
真弓が廊下へ出ると部屋担当の仲居が追い掛けて来て「女将さん、凄いですね。びっくりしました」と驚いたことを伝えたら、その後方からリーダー格の人物が顔を見せ「女将さん、申し訳ございませんでした。今回の合宿打ち上げでこの旅館に来たことは我々のこれからの人生に最も大切なことを学べました」と恐縮するような姿勢で感謝と謝罪の言葉を発し、彼らの夕食の会食が始まった。
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