高速道路や新幹線の開通で訪れる観光客が激増した温泉地に美紗子が女将をしている旅館があるが、ここにはスタッフ達からだけではなく仕入先の関係者からも「ミスター」と呼ばれる人物が存在していた。
彼は過去に都内の一流ホテルに勤務していた歴史があり、その卓越した仕事振りの存在感から「ミスターホテルマン」とテレビや雑誌で採り上げられたこともあり、業界ではレジェンド的な立場だった。
そんな彼がは定年を迎えた後に他府県の一流ホテルの総支配人に招聘されて活躍されていたが、それから2年で体調を崩されて深刻な疾病の事実が発覚、手術入院して退院後は軽井沢の近くにある自宅でリハビリを兼ねて過ごされていた。
美紗子の旅館の社長は夫が務めているが、20年来ミスターとの交友関係があり毎年の暑中見舞いや年賀状の交流も続いており、東京での現役時代には夫婦で何度かそのホテルを利用して彼と食事をしたこともあった。
3ヵ月程前のある日の夕食時、夫が想像もしなかったことを言い出した。「ミスターを当館に招聘出来ないだろうか。スタッフ教育などを考えるとあの方のご指導は最高だろうし、当館の将来にあって大きなプラスの影響力につながると確信しているのだが」という驚く相談だったが、すでに手紙や電話で何度かやりとりをしていたみたいで、来ていただける可能性があることから美紗子に打ち明けてくれたものだった。
それから数日後、アポに進んで「ミスター」の自宅を2人で正式にお願いするために訪問することになった。長野新幹線の安中榛名駅からタクシーを利用。舌切り雀の伝説で知られる礒部温泉の近くに自宅があったが、自分の住む家は和風がよいと前に聞いたこともあった通り、純日本的な2階建ての落ち着いた佇まいだった。
「お久し振りです。お身体の具合は如何ですか?」から始まった応接室での会話だが、夫の提案する「三顧の礼」を尽くすという姿勢に心を揺らされ、「まだ人の役に立つ」「求められている」「遣り甲斐がある仕事」という前向きな話し合いに進み、非常勤で「名誉顧問」という肩書で迎えることになったのである。
それから1ヵ月後に彼が来館して仕事が始まったのだが、その時には近くの市街地に賃貸マンションを契約されており、非常勤ではなく休日も取らずに毎日出勤されてスタッフ達を指導してくれていたので夫婦は恐縮しながら心からよかったと感謝をしていた。
「残された時間を有効に費やしたいのです。この世に存命する間に自分の有することを誰かに伝承することも自分の生かされた証しとなるように思えましてね」
そんなことを聞いて思わず感激の涙を流した美紗子だったが、そんな中、「女将さん、ちょっと話があります」とロビーのコーナーのソファーに呼ばれた。
話の内容は現在当館の本簡に隣接する場所で始まっている建設工事の問題で、それは旧館を取り壊して立て替えて新館として立ち上げる構想を進めているものだった。
「元請けの建設会社の責任者を呼んで話をしたいのです」ということで、現在工事現場で仕事をしている人達は「孫請け」会社のスタッフなのだが、その作業員の行動に強い抵抗感を覚えているという指摘だった。
「建設資材を放り投げており、傷んだり凹むことも考えられますし、何よりそれによって生じる音がお客様への迷惑になります。静寂な環境が大切な旅館業務であの行為は最悪です。もしもお客様の目に留まったらイメージダウンの危険性もあります。あれはプロの仕事ではなく、単なる作業のレベルで耐えられません」
如何にも「ミスター」らしい指摘であり、改善のためにすぐに元請け会社に連絡が入れられ、その日の内に責任者と現場監督が来館して謝罪して改善を約束することになった。
その時に「ミスター」が言った言葉が印象に残っている。「建築士さんでしょう?『士』という文字の意味をご存じですか?1から10以上のことを知っている専門家のことなのです」
それから工事現場の様子が一変したのは言うまでもなかった。
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