男女4人ずつ8人で2部屋を予約されたお客様があった。夕方の暗くなる前に車で到着され、女将の可南子が玄関でお迎えした。
社長と呼ばれる人は40歳ぐらいで、他の人達は全員が20代のようで若い人達。フロントでチェックインをされて担当の仲居が部屋に案内して行ったが、何か芸能関係者らしい会話が耳に入り、ちょっと気になった可南子だった。
やがて夕食の時間となって担当の仲居達が忙しく部屋食の対応をしていたが、二部屋の内の1室で8人が食事をされるところから可南子も手伝っていた。
乾杯から始まった会食だが皆さんが明るくて楽しそう。可南子はこの人達がどのような仕事をしているのかと妙に気になって仕方がなかった。
廊下のワゴンから運ばれて来る料理をテーブルへ出していた可南子だったが、会話の中に「打ち上げ」という言葉が出て来て何かイベントが終わったような感じの話が交わされていた。
「あの時はどうなるか頭の中が真っ白になったよ。しかし彼らはプロだね。そんな素振りを見せずに3曲を演奏してからアンコール曲まで応えたのだから」
そう言ったのは社長と呼ばれる人物だが、この人達がミュージシャンなのかと想像しながら可南子が興味を抱いていると、そんな可南子の心情を見据えたように社長の隣に座っていた男性が「女将さんですよね。僕達、何の仕事をしているか分かりますか?」と質問を投げ掛けて来たのである。
「はい、音楽のお話をされておられたのでミュージシャンの皆さんですか?」
その可南子の言葉に社長の真向かいに座っていた女性が楽しそうに、「昨日は大変なハプニングがあったのですけど、それが意外な結果となって打ち上げにやって来ることになったのです」と教えてくれたが、どういうことかはまだ分からないのは当たり前。
この人達の予約の電話を受けたのは今日の午前中のことだった。都心から車で高速道路を利用すれば1時間半で来られる温泉地だが、かなり高額な宿泊料でご利用いただいているので特に神経を遣う可南子だった。
そして社長と呼ばれる人物がハプニングについて教えてくれた。
「我々は音響と照明の仕事をやっていまして、ベンチャーズの日本公演の担当をしており、昨日の公演で打ち上げとなったのですが、その舞台で予想もしなかったハプニングが発生したのです」
「頭が真っ白、3曲、アンコール曲」の言葉が思い浮かんだ可南子だったが、それがどのようにつながるのかと続きの言葉を待っていたら、社長がその内容について説明をしてくれた。
「私は舞台の袖にいたのですが、演奏者4人の表情に変化があったのですぐに気付いたのが機材の不具合の発生。確信したのはモニタースピーカーが機能していないこと。奏者は観客席に流れているスピーカーの音から確認することしか出来ず、最悪の問題が発生したのです」
続いてさっきの女性が続けてくれた。「頭が真っ白になった社長は、アンコール曲が終わって緞帳が降りると通訳の人にお願いして控室に参上して謝罪をしたのですね。そこで意外な言葉が」
「そうなのです。平身低頭謝罪をしていたら、リーダーの人が『君は謝罪する必要はないよ。あれは機材の故障だ。機材は故障する物だ。機材が謝罪すればよいのだ』と返してくれたのです」
最悪の状況を観客に分からないように演奏をしたことも凄いが、この粋な言葉も最高に拍手を贈りたいレベルである。可南子もこの皆さんと一緒に楽しいひとときを過ごしたくなった。
ハプニングをハプニングでないように解決することがプロという言葉を聞いたことがあるが、日本人の歌手なら「歌えないわよ」と舞台上で怒りをぶつけていたかもしれない出来事。それを何事もないように演奏をしてからアンコールに応えてこんな粋な言葉で相手を慮ることが出来るなんて素晴らしいこと。可南子は「借りは作るな」「貸しがある方が人生は楽しい」と言われた人物のことを思い浮かべた夜だった。
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