現在のJR天王寺駅のホームで、最も南にある番線から「特急はるか」や「特急くろしお」が発車して環状線から新大阪方面へ向かうが、昔はこの番線は南海電車の専用であり、今池駅を経て天下茶屋駅を結んでいた。
南海本線では見られない古い車両が走っていたのを憶えているが、近鉄百貨店の横から出ている南海の路面電車も昔はびっくりするような古い電車が走っていた。
小中学校の通学で5年間利用していたので憶えているが、当時は平野行きがあり、次の阿倍野斎場の交差点から東へ向かっていた。
通学の途中で印象に残っているのが路面から路面でない線路に入る松虫駅のカーブの所。ここにマネキン人形の会社があり、初めて目にした時はびっくりしたので忘れられない。
上町線と阪堺線が住吉神社のところでつながっているが、当時から安孫子行や浜寺行きが運転されており、函館の路面電車のような古いタイプの電車が天王寺と住吉公園間で走っていた。
中学生になった頃、そんな中に空気バネの新しい電車が導入され、「501号」から順に「505号」まで登場したので、帰りはわざわざその電車がやって来るまで待っていたこともあった。
そんなところから住吉界隈には知り合いが多く、住吉神社や住吉公園で遊んだこともあるので懐かしい地となっているし、昔のラジオ放送で人気の高かった「お父さんはお人好し」の番組が映画化され、「花菱アチャコさん」と「浪花千栄子さん」の名コンビが、現在の住吉警察署に立ち寄る場面の撮影を観に行ったことも記憶している。
住吉交差点の付近を通るといつもいい香りが流れ、それは近くにあった「豆新」というパンの製造店からのものだった。
その「豆新」の真向かいぐらいに「うなぎ」の専門店があったことも憶えている。その店の前を通ると看板に「半助」という文字があり、何を意味するのか判明したのは青春時代になってからである。
ビッグコミックという漫画雑誌に「西岸良平さん」という作者が描いた「三丁目の夕日」という作品があったが、私のそんな時代を描いた内容で、特別な郷愁を抱いていた。
今日の写真は過日に利用した日本航空771便の搭乗券。成田からシドニーへ向かうバシネット席のものである。
南海本線では見られない古い車両が走っていたのを憶えているが、近鉄百貨店の横から出ている南海の路面電車も昔はびっくりするような古い電車が走っていた。
小中学校の通学で5年間利用していたので憶えているが、当時は平野行きがあり、次の阿倍野斎場の交差点から東へ向かっていた。
通学の途中で印象に残っているのが路面から路面でない線路に入る松虫駅のカーブの所。ここにマネキン人形の会社があり、初めて目にした時はびっくりしたので忘れられない。
上町線と阪堺線が住吉神社のところでつながっているが、当時から安孫子行や浜寺行きが運転されており、函館の路面電車のような古いタイプの電車が天王寺と住吉公園間で走っていた。
中学生になった頃、そんな中に空気バネの新しい電車が導入され、「501号」から順に「505号」まで登場したので、帰りはわざわざその電車がやって来るまで待っていたこともあった。
そんなところから住吉界隈には知り合いが多く、住吉神社や住吉公園で遊んだこともあるので懐かしい地となっているし、昔のラジオ放送で人気の高かった「お父さんはお人好し」の番組が映画化され、「花菱アチャコさん」と「浪花千栄子さん」の名コンビが、現在の住吉警察署に立ち寄る場面の撮影を観に行ったことも記憶している。
住吉交差点の付近を通るといつもいい香りが流れ、それは近くにあった「豆新」というパンの製造店からのものだった。
その「豆新」の真向かいぐらいに「うなぎ」の専門店があったことも憶えている。その店の前を通ると看板に「半助」という文字があり、何を意味するのか判明したのは青春時代になってからである。
ビッグコミックという漫画雑誌に「西岸良平さん」という作者が描いた「三丁目の夕日」という作品があったが、私のそんな時代を描いた内容で、特別な郷愁を抱いていた。
今日の写真は過日に利用した日本航空771便の搭乗券。成田からシドニーへ向かうバシネット席のものである。
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