山間部にある旅館の女将をしている美鶴には忘れられない出来事があった。それは5年ほど前に起きた九州の大雨災害による土砂崩れで、親戚の叔父ファミリーが犠牲になってしまった出来事だった。
自治体が「想定外」だと結論付け、マスメディアにも想像を絶する雨量だったと報じたことでそれ以上は進まなかったが、美鶴はそれからどんなことにも「想定外」はないように考える性格が強まり、他人から「余計なこと」「無駄なこと」と」言われても自身を納得させるための行動を貫いていた。
過去の東日本大震災もあるし、火山の噴火や全島避難を強いられたケースもあるのだから最悪に備える姿勢は重要なこと。ましてやお客様を迎える立場で「想定外でしたから」で責任逃れをするようならプロではないというのが美鶴の考えで、それらの一つが備蓄というかたちになっていた。
「水」「米」などから様々な食材を最低1週間分プールをしておくもので、次に行動を始めたのが風呂の水のことを考えて井戸を掘ることで、専門家に依頼して発掘工事をしたら3ヵ月で安全な水質の水が潤沢に得られる井戸が完成し、それを知った周囲の旅館や地域の人達から「災害時の場合はお願いね」と頼まれていた。
この温泉地には泣き所があり、それが美鶴の実践行動を後押しした事情もあるのだが、この物理的問題は今後の解決の可能性も低く、自分達で対策するしかないという結論が美鶴の判断だった。
温泉地に沿って川が流れているのだが、1キロ下流にある橋を渡って川沿いの道路を温泉街に上がって来るのだが、もしもこの橋が濁流で流されたら温泉地は孤立状態になってしまい、ヘリコプターで食料を救援して貰わないとどうにもならない現実が秘められていたのである。
この橋は上流で大雨が降って通行止めになることが年に何度か起きている。その度に帰ることの出来ないお客様が出たり、来ることが出来ないのでキャンセルされるケースもあった訳である。
災害が発生しても、1週間経てば仮設の橋が出来るだろうというのが美鶴の読みだが、その間に来られているお客様の対応はプロとして「想定内」でありたいというのが彼女の姿勢。事務所内の彼女の机には叔父ファミリーの写真を飾り、いつもかわいい花を供えるのが美鶴の日課となっており、起きては欲しくないと願いながらもこれからもずっと続けるつもりの美鶴だった。
そんな美鶴の行動は、ある日全国紙の新聞で採り上げられることになった。偶然に家族で宿泊利用した新聞社のベテラン記者に部屋係の仲居が井戸の話を始めたことがきっかけで、興味を抱かれた記者が美鶴に直接取材を行い、「想定内」という信念に偉く感銘を受けたことを紹介した記事で、その事実は全国に一気に広がり、集客にもつながることになったが、「感動しました」という内容の手紙をいただいたことが嬉しい美鶴だった。
コメントはこちらから
あなたの心に浮かんだ「ひと言」が、誰かやあなた自身を幸せに導くことがあります。
このコラム「小説 女将、「想定内」に取り組む」へのコメントを投稿してください。