フィクション 女将の旅館の職能給
交差点を自転車で走っていて信号無視の軽トラックにぶつけられたのは3ヵ月前のことだった。頭部に致命的な打撲がなかったので奇跡的に助かったが、あちこちを骨折していたこともあり3ヵ月の入院生活を余儀なくされていた。
そんな大変な思いをした鈴子が仕事に戻ったのは梅雨前だった。40室ある旅館の女将というのが彼女の仕事だが、まだ痛みを感じる身体でもずっと「私が対応しなければ」と病室の白い天井を見ながら過ごして来ており、玄関からロビーに入った瞬間に戻ることが出来た喜びに涙が出て来て目頭を押さえていた。
ちょうど昼過ぎの時間でお客様はおられないが、支配人以下スタッフ全員が拍手で迎えてくれ、もう涙は止めることが出来なかった。
小さな声で「有り難う」と言うしか出来ない鈴子だったが、自分のいない間を対応してくれたスタッフに心から感謝をしていた。
そして旅館のいつもの光景が始まった。午後2時を過ぎると早い到着のお客様が来られる。玄関でお迎えしてフロントに案内する。そんな女将らしい仕事を担当して改めて復帰出来た喜びを実感した。
鈴子の入院中、新しいスタッフが5人入社していた。人事については社長である夫と支配人が担当しており任せているが、教育の中心は鈴子が担うことになっていた。
事務所の椅子に座って新人達の履歴書に目を通す。それぞれと顔を合わせて話をする前に予め情報を得ておきたからだったが、一人の男性スタッフの特技という内容に目が留まった。そこに「絵を書くこと。特に漫画的な似顔絵」とあったからで、どんなものかを見てみたいと思った。
次の日の午後、新人5人と離れの客室で会うことになったが、それぞれが新鮮な感じがするので期待出来そうで喜びながら、女性3人と男性2人の自己紹介から始まった。
それが終わると鈴子は自身が興味を抱いていた「漫画的似顔絵」について行動を始め、それを特技と書いた男性スタッフにもう一人の男性スタッフをモデルに描くように命じた。
女性スタッフが事務所に行ってコピー用紙を10枚程と鉛筆数本を手に戻り、室内にいる他のスタッフも興味深く注目していたら、彼はスマホを取り出して相手を数枚撮影してそれを見ながら書き始めた。つまり、実物を描くのではなく写真を見て描く訳である。
時間が20分ほど流れた。鈴子は早く見てみたいと思っていたが、完成するまで楽しみにしようと床の間を背に座椅子にもたれてお茶を飲みながら座っていた。
縁側のテーブルのある椅子に座って描いているが、3人の女性スタッフが描かれつつある絵を見ながら驚いている様子で、かなり面白くて高度なレベルのよう想像していた。
それから5分もしない内に完成となった。その作品を目にした鈴子は余りにも見事な作品なので驚いた。「あなた、芸大卒なの?」と思わず確認する言葉を発したが、履歴書には私学の文学部と記載されていたことを思い出した。
モデルになった本人も3人の女性スタッフも驚いている。時間にして25分でこんな見事な似顔絵が描けるなんてびっくりだが、彼が小学生の頃からやっていたことを教えら、どうして芸大に行かなかったのかと質問したら、彼は「あくまでも漫画ですから」とはにかんだ。
そんな彼は、この旅館のオリジナルなサービスとして活用されることになった。記念日で利用されるお客様や子供さん達の似顔絵をプレゼントすることになったのだが、これが大好評で口コミから広まって予想外のお客様が来られるようになった。
あの日から描き始めたスタッフ達の似顔絵が現在で10数枚、どんどん増えて行くことになるが、愛称と一緒に廊下の壁に展示されているのでお客様達の注目を集め、「書いて欲しい」となることが多い。何より写真からというのがモデル側の負担にならない。写真の削除だけは慎重に対応する必要があるが、それについてはしっかりと取り決めてからスタートした。
鈴子の旅館のスタッフには「職能給」という制度がある。今回彼の特技も見事に開花してその特典を得たが、本人が楽しそうに仕事をしていることは何よりだ。
他に「職能給」の対象者になっているのは男性スタッフの倉橋で、彼はIT技術に長けており、旅館のHPも彼の制作だしオリジナルなネット予約のシステムを構築したので業界で話題を読んでいる。
また、外国人が増えた最近に重宝されているのが外国語可能というスタッフ。英会話が2人に中国語と韓国語が1人ずつおり職能給を受けている。
そうそう、旅館業で有名な2人の仲居さんの歴史がある。古都で歴史ある旅館の仲居として優れた所作に文化財のように認められて褒章を受けたお2人だが、鈴子の旅館の仲居頭はその旅館で勤務していた歴史があり、彼女も職能給を受けている。
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